おりじなる | ナノ






 どうやら私は世間で言う美男子らしかった。こう言うと、自分で言うなんて様あ無いと皆様仰られるでしょう。私とて生まれて十数年は周りのその言葉を社交辞令だとばかりに聞き流していたのではありますが、学生時代も半ばを過ぎる頃にはそうか、そうなのだとすんなりそれを受け容れておりました。
 私の通うそれは生憎男女共のものでありましたから、恋文を押し付けられたり、対面にて思いの丈を吐き出されたり、とまあ忙しない女子からの恋慕の日々が続きました。あちらとしては赤裸々に吐き出したものに比例するが如く私に求めるものがあったのでしょうが、如何せん私がそれらに答えたことは一度たりともありはしませんでした。そうすると、何を思ったのか純粋であっただろう、(あくまで仮定ではありますが)その情愛を憎愛へと変貌させ犯罪紛いの不貞を働こうとする方もおりましたが、嗚呼その話は今回は止しておきましょうか。
 いいえ、何ら自慢したいわけではないのです。やたらと整っているらしいこの顔にも私は然程興味は無いのですから。
 さて、私が何を言いたいかと言いますと、「好き」だとか「愛してる」だとか仰る気持ちが一向に理解出来ないのです。私には。異性として、いえもしかすると全てのことに対して愛するだとかの気持ちを私はさして長くない人生の中で一度たりとも分かったことが無いのです。親が子を愛する。男が女を、女が男を。友が友を。決して私が少々変わった性癖を持っていて生物に対してその思いを持てないというものでもありません。無機物を愛するだとかも先に言ったもの同様に分かりはしません。やれ恋だの愛だの、単語としての意味は掴めどそれを理解することは私にとってはどんな数式や暗号より難解で、まるで私の脳内でそこにただぽっかりと穴が空いているようでした。
 私としても穴の存在は気付いておりましたが、別段気にもならずにただ大股でそれを跨いだりちょっこり周りを歩いてみたりするばかりでした。それがどうでしょうか、つい最近はその穴がやたらと深く大きい口を開けるので、私は覗き込んではこうして首を傾げて考え込んでしまうのです。落ちそうなほどのぎりぎりに立ち、その穴を覗いてはやれこうだと考えてみるのですが、如何せん分からない。そうこうする間にも立ち代り成り代わり女子からお声がかかるのですが、誰一人として謎解きの鍵にはなりえないのです。
 そうこうして私の学生時代というものは終わったのですが、私の謎解きは一筋の光も得ずにただ悶々とそこにあったのです。今こうして私は何と無しに古書店を営み、持て余した時間に店先の書の古びた紙を捲るのですが、それと同時に穴の淵へ腰掛けて脚をぶらぶらさせては物思いに耽り時間を浪費しているのです。



「はあ、それで要約すると先生は何を仰りたいのですか」

 漸く話を区切ったその男、名を藤谷清一郎に彼女、名を苗字名前は眉を顰めて言った。言ったと申しましても彼女はその言葉を清一郎に面と向かって言っては居らず、その視線は手元の古く日に焼けた本の活字を追っているものでした。清一郎といたしましても彼女と同じように古書を読みつつの談話だったようで彼の方はもう終わりに差し掛かった具合でした。名前は本を読みふけりつつも清一郎に続きを促しておりますが、彼といえば知ってか知らずか。いいえ知ってのことでしょう、彼女の促しも無視して本に栞を挟んだと思えば別の本を手に取りそれを読み始めてしまいました。これには名前も活字を追うのをを止め、ばたんと本を閉じて静かな古書屋にそれが響くのでありました。

「名前さん、止しておきなさい」

 それから幾分の時がたった頃でした。名前が脚をぶらぶらさせながら本の背表紙を何と無く見ているときに、ぽつんと清一郎が小さな声で漏らしたのです。名前が本の背表紙から視線を清一郎へと滑らせると、彼は視線は活字を追いつつもぽつり、ぽつりと雨粒のように言葉を繋げてまた名前を諭すのです。

「やはり、先生の言うことは分かりません」
「私には先に言ったように名前さんの仰ったことが解らないのです」
「そりゃあ、解りはしないでしょう。ええ、先生には」

 その言葉にどういうことだとばかりに今度は清一郎が本を閉じて続きを促しました。名前の方は別段隠す気も無いようでやっとまともに視線があったと頷き人差し指を清一郎へと指し自信満々に続きを話し出した。

「先生は解らない、解らないって穴を覗き込んでばかりじゃありませんか。いいですか、その穴は考えるものではないのですから、解らないのです。落ちるものなのです。幾ら考えても落ちねば、落ちたものしか、穴を解ることは出来ないのです」
「恋はおちるものだ、と。まあ、よくありそうな言葉ですが」
「ですから先生、止すも何も、落ちてしまったのでどうしようもないのです」
「なるほど、では名前さんを助けるにはどうしましょうか。はたまた私はどうやったら穴に落ちられるのでしょうか。今まで覗き込むばかりでしたので私はその深さに尻込むばかりなのですが」

 清一郎の言葉に名前は閉じてしまった本の続きの項目を捲り探しつつ答える。

「それについてはもう少しお時間を下さい。わたしが、先生を穴に突き落としますから。そうすれば私は救われますし、先生は解ることが出来ます」

 名前の言葉になるほどと、頷き彼もまた同じように本を捲り始めた。二人とも活字ばかりを追い初めて半刻ばかりが過ぎた頃ぽつりを清一郎が零した。そして名前もそれに反応して答える。

「ところで名前さんが落ちたのはこの顔の所為でしょうか」
「顔だけでは覗き込んだに過ぎません。突き落とされたのは、まあここでは割愛しましょう」

 ほんのりと頬を染める名前に清一郎は何と無く笑みながら穴の淵でぐらりぐらりと身体を揺らすばかりだった。