「ああ、君がはじめて知るスカラビアの場所が、ここでよかったよ」
一体どういうことだろう。
不思議に思うけれどやっぱり意味はないんだろう。ジャミルくんは何を考えてるのかいまいちよくわからない。すぐに後ろを向いてしまったから、表情も読めない。
ジャミルくんは、わたしと話しながらも無駄のない動きで、茶器をセッティングしていく。きれいに磨かれた、黄金のポットが光る。なんというか、このひとの所作はいつも、完璧すぎる。文句のつけようがないのだ。
「ねぇ、ジャミルくんって元々なにしてた人なの?」
「今更だな、おれは生まれてからこのかた”ただの従者”だが…」
いつもながら含みのある言い方をするなあ。
わたしがいぶかしんでいるとジャミルくんは「なにを疑ってるんだよ」とくすくす笑った。珍しく声を立てて笑ってくれたことだし、まあいいか。ジャミルくんの笑顔は、少し女性的で、やわらかくってきれいだから、なんとなく得した気分になる。
「ああ、そういえば、今日はカリムが不在なんだ」
「なるほどね、いつも一緒にいるからどうしていないのかなって思ってたの」
「がっかりしたか?すまないな、どうやら寮長会議らしい」
「どうもあいつは、タイミングが悪いところがある」彼は口先だけで謝って、ガラス棚から取り出した可憐な薄手のティーカップに茶を注いでいる。
「いいかおり」
「今朝ブレンドしたんだ、きっと気に入る」
怖いくらいに静かだ。
ただ遠くには、聞いたことのない鳥の鳴き声がしていて、ここは未知の場所なのだとわたしに教えてくれているようだった。
かたん、とソーサーにのったカップが差し出される。オレンジとゴールド、深いグリーンで縁取られたカップ。
湯気がもうもうと立っている。
とても熱そう。
「なあ、飲む前にひとつ」
そう言って、ジャミルくんは突然、わたしの前に、片膝をついてかがみこんだ。
「こっちを見て」
肩を掴まれて顔を近づけられる。
つい目の前の、ジャミルくんの瞳をみすえる。
きらっと光る網膜。
瞳孔が、まるで猫の目のようにひろがる。
「…ジャミルくんは、」
「瞳の色がきれいなんだね」わたしが言葉を発した瞬間、
くるり。
一度ジャミルくんの光彩が回った。しかし不思議な動きはそれきりぴたりと止まった。
「オリーブの実みたいな、でも透き通ったグレー」
「あんまりまじまじとみたことがなかったからわかんなかった、でもすごく…」あまりにも顔と顔の距離が近くて、恥ずかしくなってしまってぺらぺらと話し続けると、ジャミルくんはなんとも変な顔をした。そのあと突然、力が抜けたみたいにくたりとわたしの膝に崩れ込む。
「ジャミルくん、どうしたの」
なるべく静かに尋ねると、ジャミルくんはわたしの手を取って、それから
「いいや、なんでもないんだ」
そういってひどく悲しそうな顔をした。
わたしはどうしようもなくて、なるべくやさしく彼の手の甲を撫でる。
「なんだか、毒牙が抜かれてしまったな」
「これしか取り柄がないっていうのに」…ねえ待って。そんなふうに泣きそうな声を、ださないで。
わたしはなんだかいつもの飄々としたジャミルくんとのギャップに、一気に骨までほだされてしまって、この、筋肉質なのにどこか頼りなさ気な、かよわく震える肩を支えたい。なんて激しく願ってしまう。
だけれど残念ながら、わたしはそんな身分には到底ないわけで。
だから、劣情はうまくしまいこみ、
「なにを言ってるの、ジャミルくんはぜんぶが完璧なのに」
さらりと笑ってみせるのだった。
あなたは全部が完璧。所作も、仕草も、言葉遣いも、声色も。すべてが調整されたように完璧。その弱ささえ、人間としては最高傑作なのになあ。
わたしはジャミルくんの伏せられた睫毛をみつめて、その不安ごと、すべて食べてしまいたいと、そう思った。確かにそう思ったのだ。
まるで気が違ってしまったみたいに。
窓の外では見知らぬ鳥が、おかしな声で鳴いている。もしかしたらわたし、とんでもないところに、迷い込んできてしまったのかもしれない。
(20.11.29)