20.
部屋に入るぎりぎりまで優しく、壊れ物のように運んでくれたのに、リビングに着いた途端、ばさっとソファに放り投げられた。
空却は、わたしにグラスいっぱいの水を飲ませる。
気持ち悪いと言ったら「とりあえず持っとけ」とタオルを持ってきて、そのあとシャツのボタンを上から二つ、外してくれた。
いちいち乱暴で粗雑だったけど、あまりにも手際が良くてほれぼれしてしまう。そのままジャケットを脱がせてくれたので、息を吐きながら、むすんでいた髪をほどく。
「薬あんのか?」
「あるけど、だいじょぶ。お水、もっと飲みたい」
空却は空になったグラスを受け取ると、すぐにキッチンで並々と水を注いできてくれる。
「…なんか、慣れてるね、空却」
「慣れてるわけあるかよ、拙僧は酔っぱらいは好かん」
吐き捨てるようにそういうと、空却は性の匂いのまったくしない、雑な触れ方でわたしの乱れた前髪をどけた。「おい」目を細めていると、すぐに痺れるような声が飛んでくる。
「酒は飲んでも飲まれるな。理性をなくしちゃただの畜生だ」
「…よく肝に銘じます」
「そーしろ」
空却の眉間に刻まれた皺に、う、と後悔が押し寄せて、同時に手元がゆらりと揺れる。
グラスがつい傾いてしまって、飲んでいた水が口角から溢れてこぼれる。そのまま首元を伝う。
「わ」
気づいた時にはシャツまで濡れていて、より一層情けない気持ちになる。
空却はわたしの手にあったグラスを無言で奪ってテーブルに置く。そして、さっきの、持たされていたタオルを取り上げて、そのままわたしの口元、首、胸元をぬぐってくれる。ふわりと柔軟剤のいい匂いがした。
空却は床に膝立ちしたまま、ソファの上にころがる身体が重なるように体重をかけて、わたしの濡れた胸元にタオルを押し当てる。
「ほら、顔どけろ。まだ濡れてる」
邪魔な髪をかき分ける空却の指先が首筋に触れて思わず、くすぐったくて思わず身をよじる。すると、首元を拭こうとわたしの顎をつかんでいた空却の指が、ぴくりと震えた。
やわく弛緩した指先は、そのままわたしの頬をつつみ、移動する。
こめかみの方へゆっくりと登っていく。
あれ。
思わず顔色を伺いみると、金色の瞳はいつか見たのとおんなじようにゆらゆらと揺れていて、あまりにも眩しくきらめいていた。
じ、と見つめられれば、身体が簡単に動かなくなる。蛇のように、鋭い瞳。
キスされる、と思った。
小さく息をついて、まぶたをゆっくり下ろす。
期待してる。確実に、心拍数が速くなる。
待ちわびて、とうとう目を閉じた。
その瞬間、「あ”ぁ”!」と苛立った声が聞こえた。
ハッとして目を開けると、空却はソファの前にすくりと立ち上がって、両手を握りしめていた。
仁王像のように、立ち尽くしている。
「……風呂」
「…」
「…わいてるから入ってこい」
「ふろ」
「てんめェ、酒で頭まで腐ったか!風呂だよ風呂!」
「ンなカッコしてっと風邪ひくだろうがッ!」びし、とさされた指先を目で追うと、そこはわたしの胸元で、薄手のシャツが水にぬれて透けていた。わたわたしていると、空却はわたしにタオルをたたきつけ「追い炊きとめてくる」とバスルームの方へ歩いていってしまう。
地響きかと思うほどドキドキしている心臓と、ほてった身体の熱はおさまらず、わたしはまた、なんだかひとりぼっちで置いて行かれたような気持ちになった。
・・・
お風呂に入ると、だいぶ意識がすっきりしてくる。
あたたかいお湯は薬のように身体に染みわたって、疲れや酔いをほぐしてくれる。ああ、空却にお礼しなきゃな。そう思ったところで、空却との先ほどの応酬を思い出す。
結局聞けてない。
この前のキスが、なんだったのか。
どうして東都にまで、やってきたのか。
わたしは何一つ聞けないままで、押し流されるように翻弄されている。空却はきっと全部わかっているから、時が来たら話してくれる、だなんて可愛くない甘え方をしている。いくら甘えられるようになったからって、こんなの、道理のわからない子どもみたいだ。ぜんぜんよろしくない。
キスの理由が知りたいのは、わたしがそれに、強い意味を見出してしまっているから。空却だって年頃の男の子だし、たまには”女”というものに触れたくなるかもしれない。好奇心かもしれないし、生理的な欲求として、個人的な想いとは関係なく、そういう気持ちが起こるのかもしれない。男の人のそういうどうしようもない衝動は、わかりきっているつもりだから、わたしとて相手がどうでもいい男だったら、キスひとつにばたばたしたりしないはずだ。あんなの、くちびるが一瞬触れたに過ぎないんだから。それなのに意味を知りたいと思っているのは、わたしがこだわっているからだ。空却にとっては、意味のないものだったのかもしれないのに。わたしにとってあの朝は、あまりに意味が強すぎた。
だけど、もし、あのキスがどうでもいいものだとしたら、空却がわたしをただそこにいた”女”の器としてみているとしたら、今日だって。
さっきのあの時だって、キスをすべきはずだったし、こんなへろへろに捨て去られた無抵抗の、しかもまんざらでもない顔をして待っている女にならもっと先を望んだっていいはずなのだ。いわゆる据え膳というやつ。
それをやめたのは、止めたのは、空却の倫理観?強いヒロイズム?…わからない。全然わからない。そんなふうに、中途半端に優しくされたら欲張ってしまう。うぬぼれてしまう。待ってしまう。もっと、もっと、欲しくなってしまう。
…欲しくなる?なにを?
そんなの、もう、とっくにわかっている。
湯船にちゃぷんと顎までつかると、頭がくらくらして、すぐにでもホワイトアウトしてしまいそうだったので、わたしは急いでバスルームを出た。
身体が、熱くてしょうがない。
(21.08.22)