三度目のランデヴー | ナノ


16.


完全に寝坊した。

本日、木曜日の朝である。
昨日は調子に乗ってすこしだけ飲みすぎた。おいしくて無理のないお酒だったので二日酔いはまったくないけれど、これ以上ないほど深く眠ってしまったようだ。三回スヌーズしたアラームでやっと起きた。
空却はこんな朝でもあいかわらずごはんを用意してくれていて、涙が出るほどありがたい。急ぎながらもこればっかりは丁寧にいただく。浅漬けの爽やかさがおいしい。生のトマトもおいしい。昨日の夜はすこし野菜が足りてなかったな、なんて思い返す。

たいした会話もしないまま元気よく「ごちそうさま!」をして、軽く後片付けを済ませ、嵐のように支度する。
今日は月初めの全体朝礼がある日なので、どうしても遅刻したくない。目立ちたくない。わたわたとワードローブに着替え、アイシャドウの色も選ばず一番無難なやつを塗る。髪の毛もまあ適当に、見られるくらいにはセットする。


「朝からばたばたしててごめんね!いってきまァす!」

急いでいると声が大きくなってしまう気がする。いつもより元気にいってきますをして、一番走りやすいパンプスに足を入れる。
鍵を回してドアを開けていると空却が玄関まできてくれていた。死ぬほど急いでいるわたしを見かねて鍵を閉めにきてくれたのかもしれないな、と思いドアを押しながらお礼を言おうと振り向いた。


「なまえ」

右手首をきゅっとつかまれて、引かれる。
二、三歩前によろけて、開いていたドアが半端に閉まる。
空却のもう片方の手がわたしの身体を支えるように伸びてくる。そのまま耳のあたりの髪をかきあげて引き寄せられる。スローモーションのように。
ふわりとくちびるに、空却のそれがぶつかる。
離れ際に、ちゅ、と下唇を弱く噛まれる。

「……そんじゃ、気ィつけろよ」

「急いでて事故んじゃねーぞ」空却は次の瞬間すぐに身体を離して、事も無げにそう言うと、わたしの背を押してドアの外へ、マンションの廊下へ押しやった。
扉が、ぱたりと閉まる。
鍵が、がちゃりと回る。

はッ?!?!?


・・・・


しばし廊下で茫然自失していたけれど、無理矢理意識を引き戻し、腕時計で時間を確認する。あ、遅刻、ヤバい。一気に冷汗がでる。とっくにハタチを超えたいい大人が街を猛ダッシュすることなんてそうそうないので、パンプスで駅まで真っすぐ走るとさすがに筋肉痛になりそうだった。


なんとかぎりぎり朝礼に間に合って、事なきを得る。
朝礼が終わって、始業して、メールチェック。やっと一息つくと、今朝のことがぐるぐると頭の中を回る。なんだったんだ。なんだったんだ、あれは。もしかして幻だったのかな、と唇に触れると、たしかに朝塗ったはずのグロスが、薄くなっている。触れた感触も、覚えている。やっぱり現実?!なんだったんだ、あれは!


「なまえ、今日は珍しく来るの遅かったねえ。だいじょぶ?」

と同期に声をかけられてハッと我に返る。

「あ、うん、体調悪いとかじゃないよ。昨日の夜、ちょっと夜更かししちゃって」

そうそう、昨日の夜、昨日、どうしてたっけ、わたし。
お酒を飲んだ次の日特有の、おぼろげな記憶の中に、潜水するようにもぐりこむ。

「そうなのー?でもいつも寝るの結構遅いって言ってたじゃん」

「昨日はひととごはん食べに行っててさ、お酒も飲んだから…」

そうだ。ごはんを、空却と食べに行って、お酒も飲んで、おいしくて、楽しくて、帰ってから、どうしたんだっけ。
別に何事もなかったと思う。びっくりするような出来事があればそれくらいは明確に覚えているはずである。われわれの関係が変わってしまうような、決定的なことは、何一つなかった。なかったはずだ。あるわけがないし、そんなことがもしあれば絶対、死んでもおぼえてる。朝だっていつものようにひとりでベッドに寝ていたし、空却がつくってくれたごはんもいつもどおりシンプルでおいしかったし、別に変わったことはなかった。なにもかもいつも通りだった。はず。

空却からは、特に連絡もない。
困惑しすぎていて、ドキドキする余裕もない。

ただ、いつもとすべてが違う。
心がざわざわして、まともに思考できる気がしない。
わたしは大きくため息を吐いた。


・・・


朝ぎりぎりに出社したことを、上司にもやけに心配されてしまって「今日は定時に上がりな」と好意でタスクを減らされた。昨日、資料作りを手伝ってあげた件での罪滅ぼしでもあるのかもしれない。だけど、

今日は別に早く帰りたくないんだよなあ。

まことに私事で、まことに勝手なのだが。家に帰るのがすこし怖いのだ。もちろん朝のことが嫌だったわけじゃない。もちろん?嫌だったわけじゃない?わたしは、嫌だったわけじゃないらしい。というより、もう、よくわからないけど胸がぞわぞわしている。だから仕事どころじゃないしぶっちゃけ何も手につかないような気分なのだけど、そんなことより。

家に帰ったらどんな顔をすればいいんだろう。

ゆらゆら揺れていた金色が、頭から離れない。
きゅ、とわたしの下唇を軽く噛んだ、空却の白い歯、笑うと見える尖った犬歯。赤い舌。すこしだけわたしのグロスがうつってしまったであろう、薄いくちびるを想像する。触れたことのない場所にばかり、触れてしまった。まるで禁忌を犯したひとのように、おそろしくて、妖しい気持ちだ。空却のきれいなところばかり、わたしは触れてしまったのだから。

後戻りできないほど、胸が苦しい。


(21.05.29)



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