あなたは愛の獣 | ナノ


濁流に押し流されるように早急に、ミスラはわたしの手を握り返した。
そして、寝台の隣に腰かけていたわたしをぐいっと布団の中へ引きずり込む。引き倒して、体を押し付けられる。まるで子供のように。そしてぎゅっとわたしの頬に顔をよせたと思うと、ひとつ、息をついた。


「あなたも、先にいくんでしょう」

あなたも、人間だから、異世界からきた存在だから、おれを置いて先にいくんでしょう。おれは、別れには慣れています。ひとを送ることには誰よりも慣れている。渡し守も、魔法使いも、そういう役目を負わされているから。仕方がないんです。本当につらいのは、受け入れること。受け入れて、特別な想いを向けていたものが消えること。そうなのでしょう。だって、すぐそこに、当たり前にあったものが、突然なくなるのは、本当にむごい。
もちろん、死ぬのは悪ではありません。死ぬのも、生きるのも、決して悪いことじゃない。だから、誰のことも責められないじゃないですか。おれは、一方的に苦しみを負わされて、”あのひとは今何してるんだろう”って思い返すたびに、ああ死んだんだって、ああ消えたんだって、もう会えないんだって、そんな変な気持ちになって。誰も悪くないのに、おれはひとりで悩まなくちゃならない。同じ世界にいられなくなったということを、おれだけが、何度も確認するんです。置いていかれた方だけが、何度でも。
おれは、そんな苦しみを増やしたくない。自分にも、誰かにも、そんな感情を、残したくはないんです。これ以上。
そういうふうに、本当に強く、心からそう思っていたんですよ、おれは。

「わかりますか?」

ミスラがゆっくり、息をするように言葉をつむぐのを、黙って聞いていた。たまに表情をうかがって、うなずいて、あとはただ黙って聞いていた。なにも言えなかった。なにも言う必要はなかったし、ただ、わたしはすべてを受け入れるべきだった。彼の感じている、すべてのことを聞いて、受け入れて、そしてすこしでも、苦痛を和らげるべきなのだ。”賢者”として。

「ミスラ、あなたは、本当にやさしいね」

「…またそれですか」

「おれの話、ちゃんと聞いてました?」ミスラは呆れたようにくすりと笑った。緊張していた表情がゆるりとほどけて、わたしの手を遊ぶように撫でる。

「とてもナイーブで、センシティブで、ひとの気持ちのよくわかる人だよ」

「はあ…おれは学がないのでよくわかりませんが、そういうのは、東や南の若い魔法使いたちのようなひとを指すんじゃないですか」

「もちろん彼らもそうだし、そうあろうと努力しているけれど、ミスラ、あなたはやっぱり」

そこまで言って、さっきの、とうとうと話を続けていたミスラの声を思い出す。あんなに長く話すのを聞くのは初めてだった。あまりに切実で、まっすぐで、泣きだしてしまいそうな声だった。本当はいますぐに抱きしめて、”わたしはどこにもいかない”と、嘘だとしてもそういいたくなってしまうような、そんな声だった。
彼がわたしに何を伝えたかったのかは定かではないけれど、すべてが心の声だった。ここまで剥き出しで、そして誠実なのだから、わたしも誠実に向き合わなければいけないのだろう、と思った。だからわたしはきっと、今ここで、本当のことだけを言うべきなのだろう。自分の気持ちに素直に伝えることが、彼の想いを上回った、真の感情を伝えることが、彼に届くひとつの言葉なのだろう。
そう悟った。他意はない。
ただ、彼を裏切りたくなかった。
全身で、向き合いたいと思った。


「ミスラ。わたし、あなたのことが好きよ」

まっすぐに目を見て、そう言った。
本当のことだけを。丁寧に。

「わたしは人間だし、異世界から来た”お客さん”だから、あなたの一生を隣で愛することも、あなたより後に死ぬこともできないかもしれない。だけど、どうしても、ごまかせないくらいには、あなたのことを愛してる。大切に想ってる。」

「忘れようとどんなに止めても難しいほどに、あなたへの愛情が溢れてくる。あなたは、ひとをそうさせる素敵な魅力をたくさん持ってる、だから、」と、わたしが未来への、他の可能性への言葉をつなげようとすると、ミスラの体が傾いて、ぐっと距離が近くなる。つん、と鼻と鼻がぶつかる。くちびるに、人差し指をあてられる。「他の人の話は、いいから」

「あなたのことだけ聞かせてください。おれは、初めて見た時からあなたが、おれに、特別な感情を持っていたのを知っています。」

エメラルドグリーンに射止められる。心も、体も動かなくなる。あっ、と息をのむ。そんな、まさか。動揺してしまって、全身が硬直する。

「自分ばかりそんな感情を、あからさまにぶつけてきて、ずるいとは思いませんか?それに、やっと言ったと思ったら、一方的に、簡単に、終わらせようとして。いい加減にしてください」

「ミスラ、待って、わたしとあなたは、種族も住む世界も違う、ただの友人で、それで、」

「…自分からおれの、こういう想いを呼び込んでおいて、受け入れないなんて、あまりに身勝手すぎますよ。」

彼はわたしの言葉を再度制止して、そうつぶやくと、わたしをゆるやかに拘束した。指で、腕で、全身で、やさしく。縋るように。

「言ってください。それでも。"すき"なんでしょう、おれが」

まるで呪文のようにささやかれて、めまいがした。


だれより愛を恐れていて、
いつでも愛に満ちていて、
ずっとずっと愛を欲している。

そんなあなたがどうしようもなく愛おしかった。

隠さなくちゃいけなかったのに、あきらかに愛してはいけなかったのに、暴かれてしまった。乱暴に、丁寧に、静かに。

愛を見つけて手をこまねいている。
愛を見つけて狙いをさだめている。
あなたはきっと愛の獣。


(21.04.11)



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