あなたは愛の獣 | ナノ


「ミスラには、どうしても幸せになってほしい」


”賢者”と呼ばれる人間の女は、迷ったような揺れる瞳で、そう言った。
なぜだかはわからないけれど、その女がやけに丁寧に俺の名前を呼ぶたびに、体がふわふわして、ほんのすこしだけ熱くなる。なぜだかはわからないけれど。

眠れないのだと強請ったら、彼女は今日もしぶしぶここへ、俺を寝かせるためだけに手を握らせにやって来た。そして今日もまた、俺よりさきに睡魔を迎え入れている。ベットの横に腰掛けたまま眠るなんて器用だな、と、冷めた目で女の姿を見つめる。

ほんのすこしだけ不安がある。これもなぜだかはわからないのだけれど、ほんのりとしのびよる、不安が。たとえば、何度も何度もこうして、彼女を呼び寄せていては、本当に困ったとき来てくれなくなるんじゃないか、とか。本当に困ったときっていうのは、つまりいつであっても”今”なのだが、もしかしたらもっと困る日がくるかもしれない、とか。今日だけはどうしても眠りたい、今日だけはそばに来てほしい、今日だけは彼女の意志を止めたい、そんな日が。とか。どれもこれもとりとめのない話だ。自分でも不思議に思う。なぜそんなことを、もしもの話ばかりを考えているのだろう。

こんなふうに彼女を呼びつける前にもちろん、自分でもなんとかして睡魔を呼び込むため、柔軟をしたり、片っ端から食いものを食べて腹をいっぱいにしてみたり、普段のまない種類の酒をほんのすこし飲んでみたり、そのうえさらに寝台で何度も寝返りを打ってみたりした。それなのに、やっぱり今夜も寝れないのだ。

おれの手を握ったままうとうとする彼女を先に寝かせないために「何か話をしてください」と要求したら、彼女は、冒頭のセリフをつぶやいた。すかさず、繋いだ手をぎゅっと握りなおす。この女の寝顔を見るのはさほど嫌なわけではないのだが、こうして先に寝られてしまうと、置いていかれまいと焦る子供のような胸騒ぎで、なぜだかひどくそわそわする。


「ミスラ。わたしは、わたしの知る魔法使いのだれひとり、無理解や理不尽に苦しめられてほしくないし、もしあなたたちに、おのおのの理想があるのなら、それがきっと叶ってほしいと思ってる。」

彼女は、ねむたげにまぶたをゆるめる。

「だけど、ミスラにはいちばん、幸せになってほしいって、思ってるよ」

「…あ、これは自分勝手な独り言だから、聞かないふりをしていてね」そういうと、ふふふ、と笑う。彼女は、もしかしたら、ほとんど寝ぼけているのかもしれない。

「なぜです?」

まどろみの隙間を逃がさないよう、俺が目をじっとみて聞くと、照れたように目線をそらす。

「ミスラは、とくべつ、愛がよく似合うから」

「愛?」

「そう。愛されているのがよく似合うし、だれかを愛してあげる力があるから」

「きっといつか優しい誰かがあなたに、教えてくれたんだと思う。あなたにはきちんと、そういう能力があるよ。だから、いつの日か、あなたは…」彼女は、たわむれのように、俺の髪の毛を優しくなでる。まるで子供にそうするように、まるで小さな獣にそうするように。

ああまた、これだ。いつもこうだ。
理解しないままでいいと割り切っている感情を指し示されて、それがこの身体のどこにあるのかを勝手に言い当てられる。いくら無視をしてもしつこくノックされるように押し付けられて、そうしてる間に俺はゆるゆると絆される。そして気づいたらまんまと”可愛がられている”。恋されないまま愛されている。いつも、いつも。

「…でたらめなことを言わないでくださいよ」

「本当だよ。本当に、誠心誠意、そう思ってる。」

「あなたは、無責任な人ですね」

ぎゅっと体勢を起こして、そらされた瞳を捕まえる。今度こそ、逃がさないように捕まえる。

「俺のこと、好き勝手に崇めて、褒めて、最後は誰かに押し付けようとしてるんですか」

「そんなわけ、」

「自分じゃ手に余るからって、そうやって勝手に都合よく、幸福を願うだけ願って、俺の未来に無責任に夢をみて、ひとりで気持ちよくなっているんですか?」

静かに問い詰めると、彼女はねむたげだった目元を大きく見開いて

「ごめんなさい、ミスラ。」

「身勝手で、余計なお世話だったよね、本当にごめん。」と呟いた。

思わず、彼女を責めるように口を開く。

「どうして。いつか、誰か、なんてそんな話をするんです」

彼女は、申し訳なさそうにしゅんとして、俺の言葉を受け入れている。 俺はなんだかその様子にひどく苛立って、つい「今、あなたが、それをしてくれることはないんですか」そう尋ねる。すると彼女はびっくりしたように顔をあげて、目をまるくしてこちらを見つめた。

「たとえばあなたを、俺にあなたを愛させては、くれないんですか」

すっ、と息をのんで再度そう問うとと、彼女はぴたりとまばたきをやめる。おれはなぜだかばつが悪くなって、静かに目を伏せる。なにを言ってるんだ。頭に血がのぼって、こんな子供じみた応酬。売り言葉に買い言葉。ばからしい。言葉なんて何の意味もない、意味もなく彼女を追い詰めて。たいして楽しくもないのに。なにが”愛”だ。
おれは深く、ため息をつく。

「…たとえ話です。あなたが雲をつかむような話ばかりするから、腹が立って。」

こうやっていつもあきらめたふりをして、何も知らないふりをして、ひらきかけた扉を自分で閉じる。
しずかに、丁寧に。

「ミスラ」

その扉は閉じたはずだ。俺の手で、閉ざしたはずだ。それなのに彼女は俺の顔をのぞいた。眉根を寄せて、苦しそうに。だけど、あまりに優しげに。俺の手を取って、なだめるように名を呼んだ。

「ミスラ」

俺はその声で名を呼ばれると、体がふわふわして、ほんのすこしだけ熱くなるんだ。なぜだかはわからないけれど。

そして次の瞬間、怒りに似た、熱い気持ちがどっと体に流れ込む。


(21.03.09)



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