あなたは愛の獣 | ナノ


「ミスラ」

その男は、そういう名前だった。うつくしい名だ。 ひどく、うつくしい。すんと澄んだ冬の朝のようで、北欧神話の女神のようで、植物の表面に几帳面に吸い付くブルームのようで。不思議と湿度の高い、きんきんに冷えた響きだった。

うつくしい名前を持つ人。
まず最初の感想はそれ。

そして彼の容姿は、その名前によく合っていて、目を見張るほど美しかった。
魔法使いは美男美女が多いようだけれど、彼にはまた、格別の美しさがあった。けだるげに開かれた瞳の色はエメラルドグリーン。光彩の部分はほんのりと、やがて来る春を待ちわびるように色づいていて、彼の血色の悪い頬に一筋だけ血の気を落としているようだった。赤くねじれてふわふわとまとわりつくウェイビーな髪、透けてしまいそうな薄い肌に品よく整った目鼻だち。そのどれもがぞっとするほど美しく、見つめているとなぜか切なくなるほどだった。

抑制のきいた表情の、変化のとぼしさ。節度をもって統率された、言葉のならべかた。それなのにほんのたまに、ちらりと見える野性的で乱れた態度。すべてが心地よいほどアンバランスで、思わず目で追ってしまう。そして、気づくとこちらのリズムが、思考が、彼の存在によって、まんまと崩されている。



「ミスラ」

いちばん最初に、彼の名を呼ぶのはとても緊張した。
彼の意識をこちらに呼び寄せること、自分の意図が彼に関与させること。そのすべてが重たく、恐ろしく、わたしはとても緊張してしまった。そのせいで、声がかすれていたから、一度だけ聞き返される。短く、あっけなく、優しい声で。
そして「ミスラ」彼はまるでお手本を示すようにわたしの発した音を繰り返す。彼の名だ。彼自身の名前。中間地点にある、THの発音が、やけに生々しく、艶やかだった。



「ミスラ」

呼ぶのは、これで何度目だろうか。
この名前には、たくさんの感情が詰め込まれているのだと気づいた。だから、呼ぶのにひどく勇気がいるのだ。彼のそのきわめて淡白な態度や、温度のない声、そして変化の少ない表情、それらに押しとどめられた奥底には、大きすぎる感情が眠っている。きっと、彼は、今まで何度もひとりきりで感情の揺れと向き合い、そしてそれと同じくらいさまざまな他者に多種多様な感情を向けられてきた。そのすべてを抱えて、押し込めて、自分の中に取り込んで、何とか生きてきたのだろう。
ほんとうの彼はきっと優しい。そして心がずいぶんと細やかだ。
これはわたしが”賢者”という特殊な立場で、人間の中でもあまりには彼らと近い生活圏で生きてきて、気づいたことだ。彼は優しくて、本当は途方もなく広大で、豊かな心を持っている。そもそも、魔力が大きい魔法使いというのは、みんなナイーブな心を持っている。優しい心を隠すように、守るように魔法をつかう。この魔法舎のなかでも強力な魔法使いである彼の心の柔らかさは相当なもので、だからわたしは、彼を見つめるたびにやけに切なくなったのだと思う。
たとえば一番強い魔力を誇るオズにとっては、まだ師匠が健在で、自らが育て、守るべき存在であるアーサーだって生きている。だけどどうだろう、ミスラは、ミスラには。
彼の師匠はもう石になってしまったと聞いた。彼は、誰かと心のつながりを確かめ合ったり、過去の自分を引き留めていてくれたり、そんな相手がいるのだろうか。

そこまで考えて、わたしはまた切なくなる。

だけれどこれは、この感情は、贔屓目や、個人的な想いも含んでいるのかもしれず、”賢者”としてはふさわしくないので、心の奥にしまいこむ。
わたしは彼らを平等に愛し、平等に記録し、平等に支援している”賢者”であるから。


(21.01.29)



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