いけないことかい? | ナノ


その顔にすこしも見覚えがないから、常連というわけでもなさそうだ。若い見た目をしているけれど、魔法使いだろうから、人相だけじゃ相手の情報はなにひとつわからない。

「ああ、いえ。今夜は、ひとりで飲みたい気分なので」

なるべく温度を持たない声で拒絶する。
愛想笑いを浮かべて、手に持っていたショートグラスを置く。

「そうなの?だけど、さっきからずっと寂しそうで見てられないよ」

「ねえ、俺と一緒に飲もう」そういうと彼は、無理やり隣の椅子を引っ張った。すぐ横、至近距離に座って距離を詰めてくる。

「ここ、うるさくない?このくらい近くないと話せないよね」

「や、あの」

肩が触れそうな距離で、手に触れられる。魔力が弱っているせいできっと舐められているのだろう。向こうだって見かけだけじゃわたしの年齢もわからないし、出自だって知るよしもないのだ。わたしのことを、年若い、まだなにもしらない、絆しやすい魔女だとでも思っているのかもしれない。
手を引っこめても、指先が追ってくる。
しつこそうなので、軽いバリアのような守備魔法を出して退けようとしたけれど、すかすかになった魔力は知らぬ間に底をついていたようで、うまくやれない。魔法使いのくせに、この程度の拒絶さえできなければ、今度こそ是ととられてしまう。助けを求めるように、ちらりとカウンターの中に目を泳がせる。シャイロックはまだ戻っていない。

「ねえ、これって、なに飲んでるの?紫色がきれいだね」


知らない男の手が、テーブルに置いていたショートグラスをさらう。ブルームーン。
思わず身震いした。わたしの、そしてあの男の、 あまりにも美しい想い出が汚されるようで、わたしは心の底から恐ろしくなる。焦って、動転してしまって、「嫌です、嫌!」と神経が触れたような、大きな声をだす。ああ やめて、やめて。

その瞬間、

「…失礼、きみたち」

聞きなれたあの声が、ゆるりと全身を撫でる。

「お取込みのところ、ちょっといいかな?」

聞きたくて聞きたくて、しようがなかったあの声が、頭の後ろで聞こえるのだ。
制止しようと、相手の男の身体に触れる寸前だったわたしの手首は、後ろから突然伸びてきた指先に捕まえられる。「おや、なまえ。」


「…おれというものがありながら、不貞かい?」


「きみはとんでもなく贅沢な女だ、おれを困らせるのが好きなのかな」くすりと笑うように語尾が跳ねた、あまりにもつめたくて冷静な声。
弾かれるように振り返ると、そこには死ぬほど焦がれた目。大きな湖のように広くて静かな、余裕と知性とゆるぎない意志がゆらゆらと揺れた、大好きなエメラルドブルーの瞳。いつもまっすぐに前だけを見ているわたしの大好きな大好きな眼差し。

わたしはいきおいよく身体の向きを変えて、座ったままでその男の腰に抱き着いた。


「ムル、ムル」

「…はは、まったく大げさだなあ。そんなに慌てなくたって、おれはどこへも行かないよ」

ムルはわたしの頭や肩を撫でながら、まるで宥めるように言い聞かせた。あまやかなあまやかな声、言葉。本当?本当なの?ねえ、ムル。もうどこへも行かないで,行かないで。わたしはそう口の中で、音にならないままの言葉を呪文のように繰り返す。


「まあ、そういうことだから、お引き取り願えるかな?申し訳ないけれどね」

ムルは氷のような声で男にそう告げる。男は何も言わず、舌打ちをして去っていった。離れていく乱暴な足音がする。
すう、すう、と深呼吸すると、ムルの匂い。
どきどきと高鳴る鼓動にあわせてわたしは息を整える。  


(21.03.22)



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