シャイロックがカウンターを空けても酒場の様子は変わらなかった。
静かなジャズとここちいい喧騒。
去り際にシャイロックがつくってくれた新しいブルームーンに手を付ける。いくら飲んでも、身体が渇く。心が痛い。いつまでこんなふうにしていたらいいのかな。いつになったらこのしんどさに慣れるのかな。
なんて、しおらしく内省する自分を思わず嘲笑する。本当は、意地でも慣れたくないのだ。あなたのいないこんな世界に、わたしは慣れたくなんかない。だからこうして苦しみを増幅しているんじゃない。こんなことなら死んでしまいたい。でも、だけど、あなたの帰りを待っていたい。だからまだ死ねない。いま、生きているのがとても苦しい。その苦しささえ愛おしい。
本当はね、わたしだってもっとちゃんと、なんでもない顔をしていたいのよ。飄飄とした顔をして、「あら、やっと帰ってきたの?待ちくたびれたわ」ってあなたのことを、大人っぽく迎えたいの。そうじゃなきゃあなたみたいな破天荒なひとには釣り合わないでしょ?そんなふうに思ってみても、涙はこみ上げる。あなたのことを思い出すたび、声を聞きたいと思う。横顔をみたいと思う。また、もう一度、追いかけさせてほしいと願う。
くるりくるり回るレコードが、聞き馴染んだ曲を再生させる。ふざけているのに情熱的なこの曲は、あなたの好きな曲だった。
”はるか遠い地へ進む小さなボートに君と乗りたい。
遠い目的地まで決して止まらないボートの中でなら、
君を口説き落とせる気がするから。
はるか遠い場所へ行きたい、二人きりで行きたい。
かわいいひとよ、閉じ込めてしまいたい。
どうか僕を好きになっておくれ。”
”on a slow boat to china.”
冗談なのか本気なのかわからない愛の歌が、軽快なメロディーに乗って流れてくる。ついつい耳を傾けてしまう。
わたしだって、はるか遠い場所へ、あなたと行ってしまいたい。
こんなふうにみじめにひとりぼっちじゃあなくて、あなたと。
あなたと、よ。
「お嬢さん、ひとり?」
ふいに、肩を叩かれる。
「…はい?」
「僕と一緒に飲まない?」
ゆっくりと振り向くと、知らない顔の男だった。
(21.03.22)