いけないことかい? | ナノ


このあいだの一件で、さらに頻繁に、あの男のことを思い出すようになってしまった。困ってしまう。本当に、困る。
好きだった。大好きだった。
わたしは、あの男が。

そんなのとっくに知ってる。
わたし自身だって、シャイロックだって、とっくにわかってる。あの男だって嫌ってほどわかっているのだろう。
ひどい人よね。あなたは、月の恋人、それからわたしにとってはドン・ファン。
永遠に理想を追い求めて、ずっとずっと満たされなくて、満たされないことに安心して、自分より何倍も大きいものばかり、また追いかける。真理や、科学や、夢や、月。あなたはどうしようもないひと。だから好きなの。あなたが、いつもまっすぐ前だけを見てるから。だから、わたしはあなたが好きなの。

あなたはわたしのこと、”気に入ってる”って言ってた。特別なんだって。
好きだとも愛しているとも言ってくれなかったけど、わたしにとってはじゅうぶんだったよ。熱いまなざしで前だけを見てるあなたが好きだから、わたしのことをあなたなりに大切にしてくれているのがよくわかってたから、こっちを向いてくれなくたっていいの。たまに身を預けてくれたから、弱いところをほんのすこしでも見せてくれたから、信頼してくれているのがよくわかってたから、もうそれだけでじゅうぶんだったんだよ。
わたしはあなたが夜空を眺めているのを、言葉あそびに夢中なのを、難しい方程式をひとつずつ解いていくのを、あなたがいろんな人を魅了してそして知らんぷりして去っていくのを、見ているのが本当に好きだった。


・・・


「ねえ、ムル。あなたがもし月の謎をすべて解き明かして仕舞ったら、」

『それは…おれの厄災への愛が完全についえたら、ってことかな?』

「そうね、あなたが、月を愛することをやめて、穏やかな日々が訪れたら、」

『ああ、そんなの今はまったく想像できないな。もしその時が訪れたとしたら、おれは何歳になっているのだろうね、さすがに寿命が来ているかもしれない。』

「話の腰を折らないで。仮定して、よ。」

『最期を迎えるその時も最大の愛とともに死ねたらきっと最高だね』

「ねぇってば!」

『はは、ちょっと虐めすぎた?さて、それで本題はなんだったかな?』

「もし、あなたが月を愛するのをやめたときは、もう観念して。わたしへの愛を認めて」

『…君ってやつは、本当に』

『その言葉、これでもう何度目?君は最高にいじらしいね』ムルは吹き出すように笑って、『たしかにおれは、厄災への愛のその次に、君への愛を信用しているかもしれない』と言った。わたしにとってそれは世界で一番あまやかな愛のささやきに聞こえた。意地悪で皮肉屋のあの男の、最大級の愛がすこしでも手に入るなら、わたしはもうなんだってよかった。

「何百年も伝え続けた甲斐があったわね、やっとわかった?」

『さすがだよ。おれは君に愛されてる。おれが厄災を愛しているのとほとんど同じくらいに』

「そう、きっと同じくらいに。だからわたしもその時までは厄災を愛すわ」

『…たいした女だな、きみは』

『捕まるつもりはないのに、お手上げだ』ムルは満足げに微笑むと、わたしにすっと近づいて、触れるような、奇跡みたいなキスをした。

「ムル」

『つい、ね。…今のはノーカウントだよ。単なる、祝福のキスだ。』

ぱちりと片方の目を閉じて、ウインクすると、呆気にとられたわたしを置いて部屋を出ていく。ムルのウインクは”見逃して”のサイン。わたしが、すんなり忘れられるわけないってわかってるくせに。ああひどいひと、大好きよ。息ができないくらいに、心の底から愛してる。

その時わたしは、胸をうつ熱い鼓動で、大気圏までとんでいってしまえるような気がした。愛の激しさが魔力に影響してしまうというのは真実で、今ならオズとだっていい勝負ができてしまうかも!って気がしたくらい、わたしの身体は全能感でいっぱいになった。
今考えると、たかだか触れる程度のキスだけで、爆発しそうになっている自分が死ぬほど恥ずかしい。いい大人なのに、子どもみたい。恥ずかしい。だけどね、そのくらい、まるで子どもみたいにあなたのことが好きなの。好きだったの。


(21.02.11)



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