いけないことかい? | ナノ


「…わあ、これは美味だねぇ!」

ムルは突然、感激したようにそう言った。

声に反応して隣を見ると「ほら、なまえも食べてみて」と、フォークを目の前まで差し出される。咄嗟のことで、反射的に、ぱくりとそのまま口に含む。
口の中に塩気と、海の香り、オリーブオイルとほんのりとレモンの香りがする。きっと旬の魚だ。しのびよる春が旬の、白身魚のムニエル。


「ね、おいしいでしょ?」

ムルは満足げにわたしを見つめている。

「う、うん、おいしい」

「これ、なまえもすき?」

「うん」

「だと思った!…じゃあ、おれは?」

「おれのことは、好き?嫌い?」表情も変えず、わたしに尋ねる。淡々と、そしていつものようにすこしだけ愉し気に。
わたしはもぐもぐと動かしていた口の動きをぴたりと止めて、すべてをごくりと飲み込む。ぼうっとムルの方をみる。思考回路も、ぴたりと止まる。

「ねえ、なまえ。なまえはさ、おれのことが嫌い?」

「…どうして?」

「だって、この前、泣いてた!」

「おれの顔見て、泣いてた。たくさん泣いてたよね」そう言うと、つくったようにきれいな”悲しい顔”をする。
ムル、ねえ、ムル、あなたは悲しい時、そんな顔はしないのよ。本当に悲しい時、あなたはね、もっと苦しそうに、怒ったみたいな、険しい顔をするの。まるで悲しい感情を隠すみたいに、怖い顔。
わたしはね、それをよく知ってる。よく覚えてる。つい昨日のことみたいにね。

あの男の表情をあざやかに思い出して、おもわず胸が詰まる。
目の前のムルに、あの男の顔を重ねてしまう。
今のそれより、ずっと張りつめていて、余裕ぶっていて、格段に緊張感のある、あの男の表情、眼差し。呆れたようにわたしを見る、あの、かお。


「…大好きよ」

わたしがうわ言みたいにそう呟くと、ムルは驚いたように目を丸くして、それから乾いた声で「ははっ」と笑った。


「君は嘘が下手だな。また泣いてる」

鼓膜によく届く、聞きなれた声が心地よい。
落ち着いていて、冷めていて、よく抑制のきいた、あなたの声がする。
錯覚かもしれないけれどたしかに、あなたの声がする気がするの。

ねえ、大好きよ、わたしのドン・ファン。


(21.01.24)



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