ムルに、今のムルに。
聞かれたことがある。
「ねえ、なまえ。なまえは、おれのことが嫌い?」
深淵をのぞくみたいな、あまりにも真っすぐな目で、そう問われたことがある。
・・・
その日は珍しく、ムルが早いうちからバーにいた。
だからわたしは入り口を開けた瞬間、すぐに帰ろうと思ったのだ。だけど店に入ってムルを見つけた途端すぐにとんぼ返りするのも露骨だし、後味が悪い。そう思ってモスコミュールを一杯だけ、シャイロックにオーダーした。
これだけ、一杯だけ、飲んだらすぐに帰ろう。
「…あれ?今日はいつもの、紫のやつじゃないの?」
聞きなれた声がして振り返る。あえて距離を離して座ったのに、ムルはそれまで座っていた端っこの席を立って、わざわざわたしの隣に腰かけた。猫のようにひゅるりと、気づけば近距離にすべりこんでいる。その様子は、あの男を露骨に思い出させる。
「ああ、ムル、こんばんわ。…そうね、たまにはね」
「うん、こんばんわ!」人懐っこい笑顔は、何度見ても慣れない。
「なまえはスミレのカクテルしか飲まないのかと思ってた、ジンも好きなんだ」
「好きよ、昔はジントニックばっかり飲んでた」
なるべく動揺しないように、違和感のないように、ふつうの男友達にするように、適度な距離感で言葉を返す。
「へえ。それじゃ、なまえはジュニパーベリーが好き?」
「そういうわけじゃないけど…そうね、どちらかというと好きかもしれない」
「ふうん、そう」ムルは興味があるんだかないんだか、よくわからない曖昧な返事をして、持っていたワイングラスを傾けた。
「なまえ、お待たせしました、モスコミュール。珍しいですね?」
シャイロックがいつもより少し畏まった様子でカクテルを出してくれる。
コリンズグラスに薄いゴールドの液体がゆったりと注がれている。飲み口に刺さったライムの断面がきらきらと光っている。
「ありがとう、シャイロック。今夜はあんまり酔いたくなくて」
「それはいいことです。いつも酩酊するほど飲んでばかりだと、さすがの私も心配ですから。…自分のつくったお酒で親しい人を廃人にしては、寝覚めが悪いでしょう?」
「それじゃ、ごゆっくり。」シャイロックはちらり、とわたしの隣に座るムルに視線を向けていたけれど他のお客さんに呼ばれて向こうへ行ってしまう。
なんとなく手持ち無沙汰になって、いそいでモスコミュールをのどに流し込む。こくりと飲み下すと、さわやかで甘くって、おいしい。たまにはこういうのもいい。なんの感慨もなく、苦しみもなく、ただカクテルの味をたのしめることに幸せを感じる。
「わぁ、おいしそうに飲むね」
「…そう?」
「うん、いつものやつに比べて、ずっとおいしそうな顔して飲んでる」
「バイオレットフィズやブルームーンはやめて、今度からそっちを頼んだら?なまえはジュニパーベリーが好きなんだしさ。」白ワインを傾けながらムルはさっぱりした顔でそう言った。
「そう、ね」
「そうだよ、そのほうがきっといい」
よどみない口調でそう言い切ると、ムルは白身魚のムニエルをフォークできれいにほぐして口へ運んだ。
「ねえねえ、なまえは、シャイロックと仲がいいよね」
「…え、あ、うん、そうね、親しいよ」
「どうして仲がいいの?」
「うーん、知り合って長いからかな」
「じゃあおれとは?」
「おれとは、仲がいい?」もぐもぐと咀嚼しながら、ムルはそう尋ねた。わたしはムルの言葉一つ一つに動揺してしまう自分をなんとかごまかしながら、言葉を選ぶ。
「そうね、仲がいい、と思う」
「そっか!それじゃあよかった」
パン、と手を合わせて、ムルはニコニコと笑う。
わたしはやっとホッとして、もうひとくち、モスコミュールを飲む。
あんまりにもはらはらして、どきどきして、気が休まらない。今のムルにあの男の姿を探さないように必死で、とてもお酒どころじゃない。
(21.01.22)