いけないことかい? | ナノ


ゆらゆらと視界が揺れている。
酔いが頭まで回ってしまった。
バイオレットフィズ、ブルームーン、あの男が愛したカクテルを何杯飲み干したとしても、帰ってくるわけないのに。わたしは、飲むのをやめられない。

お酒はすべてを麻痺させる。感情も、記憶も、感覚も、思考回路も。すべてを止めて、優しく許してくれる。だからわたしは今日も飲む。アルコールにずぶずぶと浸って、まぼろしみたいな光の糸を、掴んでまた生き延びる。
だって悲しくて寂しくて、それしかやりきるすべがない。


「ねぇシャイロック。バイオレットフィズを、もうひとつちょうだい」

カウンター越しのシャイロックにそう告げる。
「いけないひと。」そう笑う彼はスミレのリキュールを手に取りながらも呆れたように「いくらあなただって、二日酔いはつらいでしょう。それどころかこのままでは中毒になってしまうかも。…とにかく、ほどほどにしないと後が大変ですよ。」なんて口先で諭すだけ。
わたしは知ってる。シャイロックは忠告をするだけでそれ以上、止めたりしない。お酒を出すことをやめたりしない。
それが彼の商売だからでもあるのだけれど、それだけじゃない。わたしの痛みを、あの男を”失った”耐え難い苦しみを、憎しみを、ほの暗い感情を、わかっている、と。同じ親しきものとして理解している、と。きっとそう言ってくれる。だから、いくらでも飲ませてくれる。決して止めたりなんかしないのだ。

もしかしたらシャイロックだって、わたしに飲ませることで自分の苦痛を誤魔化しているのかもしれない。わたしが、泥酔してひどく嘆くことで、そしてそれを紳士的に慰めることで、自分を宥めているのかもしれない。ああ、大の大人をふたりもダメにしてしまって。あの男はつくづく罪な男だと、そう思う。そしてわたしもシャイロックも、嫌になるほど愛情深くて甘い性格だと、心底辟易する。


シャイロックの美しい指先がしずかに差し出すロングカクテル。
うすいパープルの液体にはふつふつと虹色の気泡が揺れている。
うつくしい。本当に。
夜空のように美しい。皮肉なことにね。

わたしはシャイロックにひとつだけ微笑みを向けて、それを舐める。
ぴり、とソーダが弾けて、そのあとすぐにスミレの花の香り。シュガーの甘さ。レモンの苦み。また、くらりと脳が震える。

シャイロックのつくるカクテルはどれもおいしい。それはまちがいないんだけれど、それにしたってこのお酒は、バイオレットフィズは、ひどくあまくて、これでもかというほど柔らかい匂いがして、わたしの頭はどんどん溶けていく。この淡いパープルは、どうにも甘くて甘くて吐きそうだ。


かまわず2口目にくちを付ける。突然フラッシュバックする。
あの男がここにいて、意地悪く笑っていた時間が、わたしの中に蘇る。この瞬間が、今のわたしにはちぎれるように痛くて、悲しくて、ひどく気持ちいい。

まるで自傷行為だと思う。
すぐに戻るわけのないあの男を、無理やりにでも呼び起こして、思い出して、自分を厳しく虐めている。わたしは自分でも気づかないような心の奥底の部分に、マゾヒスティックな性質を抱えていたようだ。
先日、それをひとりごとのように「意外だわ」と嘆いたら、カウンター越しのシャイロックに「そんな当たり前のこと、今更気づいたんですか?あなたがマゾヒストじゃなくちゃ、あの男とやり合うのは難しいでしょうに。」と笑われた。
わたしは咄嗟に「いやねシャイロック、それはお互い様だわ」と笑ったけれど、あまりに愉快そうなシャイロックの笑顔をみて、きっとここにあの男がいたら、同じように言って喜んだに違いない。と思ったのだった。そしてまた、わたしはひとつ傷ついていく。ばかばかしい。

わたしは、どうしても忘れたくないのだ。
シャイロックのようには割り切れないのだ。
あの男が確かにここにいたこと、ぺらぺらとよく回る口で世の中の様々を弁舌していたこと、毎晩かならず菫色のカクテルを飲んでいたこと、そして、わたしの指を撫でたこと。そのすべてをなにひとつ忘れたくないのだ。決して。
この世界の全部のひとがあの男を、あの男のいた時間をすっかり忘れたとしても、わたしだけは、わたしだけは一秒たりとも忘れてやらない。

我ながら馬鹿らしいと思う。
あの男だって、こんなわたしをみたらきっとそう言うのだろう。
『消えていったものを毎日のように追い求めて、愚かに悲しみに沈んだりして…あまりに悲壮的すぎるんじゃないかな?ほら、顔を上げて。』まぶたの裏に浮かぶようだ。小首をかしげたあの男が。細められた瞳、揺れる前髪、片方だけ頬を持ちあげて笑う、ニヒルな横顔。どれも愛おしい、どれも懐かしい、どれも、恋しい。苦しい。
カッと目頭が熱くなる。ああ気持ちがいい、あなたを思い出すのは本当にうれしい。ひどく痛くて悲しいのに気持ちがいいの。あなたに、あなたに、会いたい。


「あー!なまえ、また酔っぱらってるの?」

思わず感極まって手のひらで顔をおおっていると、背中の方から声がする。
よく知っている声、まだぜんぜん馴れないその無邪気な話し方。

「なまえ、酔っ払い過ぎると夢のなかに蛇がでてきて、身体ごとぜんぶ丸呑みにされちゃうよ?…がぶっ!って!」

「それとも、狼かな?ねえ、どっちのほうが怖い?ともかく怖いほうが出る!」声の主はわたしの顔を覗き込んで、にこり、と笑う。両方の口角を持ち上げて、歯を見せて、憂いなく、笑う。
表情は全部違うけど、瞳だけはずっと同じ。
この人の瞳は、いつもまっすぐで、見透かすようで、迷いがなくて。

『なまえ、深酒なんて退屈な奴のすることだ。せっかくの美酒がもったいないじゃないか。…ああ、シャイロック、なまえにはもうこれ以上お酒をつくらないで。』

脳内であの男のセリフがこだまする。
すると水の中に入ったように、わたしの耳は突然聞こえなくなってしまう。
ムルが、目の前のあどけない表情のムルが、なにか言ってる。
それなのに、頭の中では、あの男がしきりに話しかけてくる。


「シャイロック。なまえには今日、これ以上お酒を出すの、禁止!」

やっと酒場の喧騒が耳に届いてきたころ、わたしはすでに泣いていた。
ムルの明るい牽制が聞こえてきたときにはすでに、わたしははらはらと泣いていたのだ。

シャイロックがカウンターの向こうで困ったように笑っている。
わたしはもう、なにもかもダメになっているらしい。


助けてよ、
わたしのドン・ファン。


(21.01.19)



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