「ねえ、ムル」
わたしが呼びかけるとムルは目をまんまるにしてこちらを向いてくれる。
「"ムル"には内緒にしてほしいんだけど、」
「ん?なになに?」
楽しそうにたずねてくるくちびるに、ぐっと距離をつめる。
そして、小さく深呼吸をひとつ。
「…ムル、すきよ、だいすき。かわいい人、ありがとう」
じっとムルを、今のムルだけを、見つめて言う。
ムルはすぐさま、わっとびっくりしたような顔をして、
「なまえ、君って悪い子だね」
と意地悪く笑った。
「悪い子かな」
「…うん、”おれ”に言っちゃおう」
「え!そんなことできるの?」
「あはは!んー、わかんない!」
弾けたように声を出した彼は、わたしの頬をゆるやかに撫であげる。
「そうだな、じゃあまずはシャイロックに告げ口をしようかな」
たくらむような意地悪な表情におもわず冷汗があふれてきてわたしは「それはだめ!」と批難するように叫ぶ。するとムルはその言葉が言い終わるその前に、わたしの手首をきゅっと引いた。「わ!」驚いてつい前のめりになる。ムルはバランスを崩した身体を抱きとめて、耳元に唇を寄せる。「うそだよ。」
「おれ以外の誰にも言うわけないじゃないか。君ってひとは、本当に油断ならないんだから」
ああまただ。耳に心地のいい冷たくて、静かな声がすべりこむものだから、頭がくらくらしてしまう。まるで神経伝達のようにすみやかに、彼の瞳の色をうかがうけれど、身体を強く引き寄せられているので、うまく顔が見えない。
「ムル?」
「うん、そう、おれだよ。おれだってば。」
ムルはひとつだけうなずくと、妖しく微笑んだ。ような気がした。
「おれは、君に、飲みすぎないようにって何度も言ったね?美酒を台無しにするのは、退屈なやつのすることだって」
「君はいけない人だよ、いけないことばかりだ。だからせめて、おれのことを忘れないでいるように。わかるね?」言い聞かせるようにそう囁かれて、わたしは首を縦に振る。何度も、何度も。ムルは満足げに「そう、上出来だ」と笑うと、わたしから身体を離す。ひらりと揺れるシャツの裾。何事もなかったように、彼の手が、テーブルの上のブルームーンに伸びていく。
白い指が、グラスをくいっと傾ける。宝石のような瞳が、こちらをちらりと撫でる。
その姿はまるであの日のあの男で、わたしの胸はきゅっと縮んだようにしびれる。どきどきと高鳴る胸を両手で押さえる。何度か、強く瞬きをする。まるで、夢じゃないのだろうかと確かめるように。
夢なんかじゃない。夢なわけがない。
だけどその代わりわたしはわかってしまう。
すっかりわかってしまうのだ。
きっと間違いなく、次に口を開くのは、あの男なんかじゃなく、いつものムルなんだってこと。
「…わ、すごく甘い!おいしいね!やっぱりスミレの香りだ」
「今度からおれもこれにしようかな。そしたら、なまえとおそろいだね」目の前の男はまぶたをきゅっと弓なりに細めて八重歯をみせて笑う。
ほらね、やっぱりムルだ。
わたしを混乱させないで。うそよ、もっと混乱させて。
あなたのことが大好きよ。うそよ、あなたもこの人も大好きよ。
まだ、レコードはあのジャズソングを流し続けている。
親愛なる、わたしのドン・ファン。
あなたは愛を語るための小さなボートに、わたしを乗せてはくれなかった。わたしを置いて遠い国へと旅立ったあなた、どうかちいさな不貞をおゆるしください。あなたが残していった目の前のこの人に、あなたの姿を重ねてしまうこと。あなたへの愛をもってこの人を全身で愛してしまいそうになること。あなたを思って涙が枯れるまで泣いてしまうこと。そのどれもを。お酒はすこしだけ控えるようにするから、どうかおゆるしくださいな。
厄災との戦いが終わるその日まで、あなたよ、どうか健やかに。
わたしがあなたにもう一度、愛を囁けるその日まで、どうか、それまで、そのエメラルドブルーの瞳の奥でわたしをみていて。
声にならないわたしの願いと、叶うことない恋心は、仲良くいっしょに泡になって、今夜も明日も、バイオレットのカクテルに溶けていく。
(21.04.11)