「なまえ!だいじょうぶ?」
「生きてる?!」そう叫んだムルがわたしの腕をほどいてぎゅっといきなりしゃがんだと思うと、目をまんまるにして顔をのぞきこんできた。
「へ?……ムル?」
「うん!そう、おれ!」
「い、いま…」
「あ、しゃべり方?"おれ"の真似!」
「どう?似てた?もしかして、騙された?」へらりと崩した笑顔をつくるムルに、わたしの緊張感もすとんと抜けていく。わたしは茫然と彼の顔をみつめる。
ああ、あの男はまだ、どこにもいない。
今はもう、このひとのどこにも、見つからない。
心臓が抉られるのように痛んだ。悲鳴をあげて逃げてしまいたかった。だってムルが、やっぱりあの男とおんなじ顔で無邪気に笑うから、おんなじ声でわたしを元気よく呼ぶから、わたしはそれを裏切れない。どうしても受け入れたいと思ってしまう。
ひたすらこわいのだ。
あの男を忘れるのがこわい。
同時に、ムルを受け入れてしまう自分がこわい。
「だってさ、”おれ”のほうが、こういうのはうまいでしょ?おれよりも」
「…そうね、そう思う」
「ねぇなまえ、こわかった?死ぬかと思った?」
わたしを質問攻めにするムルは、さっと真隣の椅子を引いたと思ったら、すとんとスマートなリズムで腰かける。こちらを向き直って、わたしの頭を撫でてくれる。さっきまでの紳士的で冷たくて痺れるようなやり方じゃなくて、やさしくて力強くてあたたかい動物のような触り方で。
ムルは、この人は本当にやさしい。
きっとあの男とおんなじで、心の底からずぶずぶにやさしい。ちょっと意地悪なくらいに誠実で、やさしいのだ。それが彼自身なのだから。
「ねえ、ムル」
わたしは静かに声を出す。エメラルドの瞳がこちらを向く。
まだ、身体が少しだけ震えている。
「わたしって、最悪かなあ」
「最悪?どうして?」
「いけないこと、してるかなって」
「うーん。それは、内容によるね。たとえば、なんのこと?」
「おれが判断してあげよう。さあ、おしえて?」ムルは身を乗り出して、内緒話をするみたく、片耳をこちらへ傾けてくれる。
わたしもすこしだけ近づいて、耳元で、小さく口を開く。
「あのね、こんなに魅力的なあなたと話してても、わたし、"ムル"に会いたいって、思っちゃうんだよ」
ムルはくるりと目を丸めて、ぱちぱちと瞬きしたと思うと、吹き出すように笑った。
「あはは!残酷なほどに素直だね、なまえは。」
「ちょっとは寂しいけれど、仕方ないよね。うん。仕方ない。むしろ清々しいくらいだ。」ムルはうなずきながら目をつむる。
もういちど目を開いて、わたしの頬に落ちた涙をみつけると、親指できゅっとぬぐってくれる。「それじゃあさ、」
「こうやって慰めてあげるのも、"おれ"じゃなくて残念だね」
「君にそんなに想われて、きっと君の"ムル"も喜んでると思うよ」そういうとムルはすこし怒ったような険しい顔をした。
…ああ、この顔、よく知ってる。
あの男とおんなじ顔だもの。ねえいま、少しだけ悲しんでるでしょ?あなたって、本当に本当にやさしいね。
あの男がいないせいで寂しくて苦しくて締め付けられていた心が、ムルのせいでゆるゆると溶けていく。わたしはそれをわかってしまっている。とっくに気づいてしまってるの。とっくに、知ってしまっているの。
(21.04.04)