「…これぞ、百聞は一見にしかず!」
「え?」
「あれ?違った?」
あはは、と笑うムルはとぼけたようにいつも通りの表情に戻っていた。手はつながれたまま。わたしは呆気にとられたまま、くるくる変わるムルの表情を目で追う。「 ああ、そうだ! 」
「目は口ほどにモノを言う!…だね!」
「んー?これもちょっと違うかな?」ムルはそういうと考え込むような仕草をする。
そうするとムルのあたまのなかがくるくると回転して、瞳から温度が消える。
下くちびるからゆるい笑みが、消えていく。
そのかわり、片方だけの口角を意地悪にあげるような笑い方をする。
ちらり、横目でこちらを見るムルの表情からはあどけなさが消えていて、わたしは不覚にもどきりとしてしまう。こんな顔をみるのは、初めて。
「…つまりさ、言語なんかいらないんだよ。」
いつもよりずっと平坦に聞こえる、いつも通りのムルの声。
「君におれのこと、本当に理解してもらうために、言葉なんてひとつとして必要ないんだ。」
「わかるかい?」冷えた目で、じり、と見つめられると、背筋が凍るような気がする。身体がすべて冷え切って、それなのに心臓だけが沸騰しそうなほど熱くって、身体から分離してしまいそうだ。
わたしがムルの瞳から目をそらせずに固まっていると、ムルはわたしのほっぺたに人差し指を突き刺した。
「あはは、変な顔!それ、なんの顔?」
弾けたような声がする。にこにこ笑うムルはすっかりいつもの、気まぐれな猫みたいな雰囲気に戻っていて、わたしは一気に緊張感がほどける。身体中の筋肉が弛緩する。
「ムル、こそ、今の目…」
「えー?なにー?」
今の目、一体どうしたの?恐る恐るそう尋ねようとしたのに、途中でさえぎられる。ムルはさっさと椅子から立ち上がって、キッチンの方へ歩いて行ってしまう。「このまえ残しておいたガレットはどこ?まだある?」とかなんとか聞いてくる。
「ねえ、ムル、ムル」
「ああ、大丈夫!大丈夫!君はおれの言ってること、ひとつもわかんなくっていいんだよ。全然いい。」
「おれだって、よくわかんない!」ムルは勝手に見つけ出したガレットを頬張って満足そうにホットミルクを飲みほす。
「きみが理解していいことは、おれがこの場所を結構気に入ってるってことだけさ」
ムルは春の日差しみたいに笑った。
(21.02.23)