ムルは春の日の突風のよう。
いきなり現れて、去っていく。
町のひとたちから、彼は実は偉大な学者であるらしいとか強力な魔法使いであるらしいとか、そんなことを聞いたけれど、本当のところはどうなのだろう?
ムルは、軽快で、茶目っ気があって、やわらかい。そういうひと。
たまにきりりと目を細めて、まじめな顔で何かを深刻そうに考えているようだけど、だいたいはきまぐれな猫のようで、子供のようで、とても怖い人には見えない。
だけどわたしはよく知らない。
ムルが本当はどんなひとなのか。
ムルがなにを考えているのか。
ムルが、どこからやってきて、どこへ帰っていくのか。
フルネームも、出身も、職業も、血液型も。何も知らない。
「ねぇ、ねぇ、気がついた?」
ムルはにこにこしながら今日もやってくる。
森の中の、ふつうの女がたったひとりで住んでいる、ちいさな一軒家に。
そしてたいてい彼は、わたしの焼いたケーキをつまみぐいして、ほんのたまにお茶まで飲んでそしてすこしだけおしゃべりをして去っていく。
「気がつくって、なにに?」
「気づいてないの?おれがひと月前、外に生えてるリンゴの木をひとつだけ、チェリーの木に変えておいたってことさ」
「あ…!あれって、ムルの仕業だったの!」
「すごくびっくりしたのよ」わたしがそういって怒ったふりをすると、ムルはうれしそうに笑った。
「そうでしょ?だけどじょうずだね、チェリーがしっかり赤く熟してきてる」
「ムルが、食べごろより少し手前の実のついた木を、わざわざ生やしたからじゃない」
「おれのは魔法だからね。魔法はたしかに多少、上手かもしれないけれどさ」
ムルは得意げに人差し指をくるくる回す。そしてわたしの方にそれを向けると、ひらりと花びらを弾けさせた。
ひらひら、落ちていく。そして床に落ちた途端に溶けるように消える。
「君のは魔法じゃない、そのかわいい手が、あのチェリーをあんなにつやつやに大きくしたんでしょ?」
「それって、とってもすばらしいことだよ」ムルは大げさにそういうと、当たり前のようにダイニングテーブルに腰かける。ひらり、きれいな色のシャツの裾が、花びらのようにゆれている。わたしは、嬉しくて悔しくて、それをじっと見つめる。
「あ、今日のケーキはなに?スパイシーなアップルパイもいいけどさ、おれ、今度はあんまり甘くないダークチェリーパイが食べたい!」
「どうかなあ?」肘をついて、上目遣いでこちらをうかがう。
「たった一晩でリンゴの木をまるまる1本チェリーの木に変えてしまって、今更、どうかなあも何も、ないでしょう」
「それってどういう意味?つくってくれるってこと?」
「…つくるわ、いたしかたなく」
「ははっ、そういうと思った、予想通りだ!」ムルはわっと手のひらを顔の周りで大きく開いてから、ぽん、と合わせた。
「おれ、筋書き通りのことって退屈で大嫌いだけど、君がおれの思った通りに動くのは、ものすごく好きだなあ」
「…もしかして、わたしのこと、ケーキ作りマシンだと思ってる?」
「いいね!おれ専用のマシン!かっこいいね!」
「かっこよくない!ぜんぜん!」
ムルのことなんて知らないのに。
何も知らないのに、なぜだかわたしは拒否できない。
このひとは、まるで野良猫みたいにうちに入り込んで、いつのまにかこの場所に溶け込んで、わたしの心に棲みついてしまった。そしていつも、えさを食べたらあっさりと、どこかへ帰っていってしまうんだ。名残惜しい気持ちなんていっさいないままに。
今日だってどうせ、そうでしょう。
食べ残しのチェリーパイと、森に一本だけ迷い込んでしまったチェリーの木と、それからわたし。全部をぽつんと置き去りにして、どこかへ行ってしまうんだわ。
「…ムルなんて、ぜんっぜん、かっこよくない」
なんだか悲しくなってしまって、わたしがそう呟くと、
ムルは目を真ん丸にして驚いたような顔をする。
「あれ、おれ、今ちょっと嫌なこと言った?」
「いやだった」
「そっか、ごめん!許してくれる?」
ムルはにこやかな笑みをそのままにして、立ち上がってこちらに近づく。
「ね、おこらないで」
まるで小さな子をあやすみたいに やさしく頭を撫でたと思ったらそのまま、両手できゅっと手をとられる。
「子ども扱いしないでよ」
「してない、してない」
「してる」
「してないよ、ほら」
下からのぞき込まれるように無理やり目を合わせられる。
ムルの瞳はゆらゆら揺れていて、珍しく不安そうにくすんでいた。ぎゅっと眉根が寄せられて、瞳孔が縮まる。そのようすを見ていたら、なんだかこちらが不安になってくる。つい衝動的に怒ってしまったことをひどく後悔する。
「む、ムル、」
わたしが、謝ろうと口をひらくとムルは目をそらして、すこしだけわたしから離れる。す、と息を吸った。
(21.01.25)