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ひとりだけの補講中、あまりにも静か。
きょうは体調不良でおやすみした日の分。成績が悪いわけでもないのに、なにかと補講が多いのは、気のせいじゃない。のかもしれない。

さ、さ、とたまに白衣の擦れる音。ちゃぽ、ちゃぽ、水音。
わたしよりずっと年上の、ポーカーフェイスのこのひとは何を考えてるんだろ。
やきもきしてしょうがないので、目の前で調合をまちがえた。

もちろん、わざと。

「…おい、仔犬?!」

バッと先生の腕がのびてきて、わたしの身体を引き寄せる。
ぽかん!間抜けな音をたて爆発した鍋からは薄紫色のスモークがあがっていた。数十分間の静けさを取り戻すように、たくさんの要素が動き出す。きらきらした粉が舞う。

「いきなりどうした!」

「無事か?」わたしを腕にとじこめたまま、頬や額に傷がないか、ゆっくりと確かめる先生。掌がつめたい。わたしが女だからって、こうやって大げさに心配するのだ。どうせ他の生徒だったら、みんなだったら、もっともっと雑に、均等に、呆れたように、対応するだろうに。女だから。女というだけで。

「怪我はないな、どうしたんだ」

「…ごめんなさい」

「謝らなくていい」

先生は、わたしの身体を離し、席に座らせる。「換気が必要だ」と窓を開けて、ついでにビーカーにお水を注ぎ入れて持ってきてくれる。ビーカーの底は小さく泡立っていて、中にある水が、微炭酸のそれであることがわかる。わたしは、このお水が、この部屋でしか飲むことができないこのお水が、とても好きだ。

「飲んで落ち着け、普段まじめなおまえが失敗するなんて珍しい」

先生はビーカーを差し出して、不安そうに見つめてくれる。
先生に近づくと、いつもとてもセクシーな香りがする。 さっきも香った、ウッディでミルキーでほんのり辛い、スパイスのような乾いた香り。思い出すだけでぞくっとする。そういうことばかり考えている。間近で見た先生のきれいな首筋や、すべらかな頬や、指先のつめたさ。そういうことばかり考えているの。わたしは全然、まじめな生徒なんかじゃない。

「せんせ」

「なんだ」

「わたし、変なの、最近」

「そうか、なんでも言ってみろ」

「心配事か?」ほらね、その目!あんなにセクシーな触れ方をしてきて、そんな、子どもを慈しむようなまなざしをするの?ずるすぎる、酷すぎる。こんなのって屈辱的。

「やっぱり平気、なんでもないです」

「おれには言えないことか」

「うん、先生に言えない事」

「それはそれは…」

「とんだバッドガールだな」眉尻をさげて、わたしの頭を撫でる。ほらね、わたしが女だからって、こうやって甘やかしてくるの。他の生徒だったら、みんなだったら、もっと大きな声で、牽制するように、でも少し楽しそうに「バッドボーイ!」って叱るくせに。女だから。女というだけで、こんなに距離がある。
ビーカーをかたむけながら先生を観察する。彼はため息をついている。

「先生は、わたしの一番仲良しって誰だと思う?」

「…ハーツラビュルの赤毛やら、同じクラスの駄犬たちだろうな」

「うーん、正解です。どのくらい仲良しだと思う?」

「さあな、校内でもよく一緒に居るのを見かける」

「ふうん」

先生は補講を一旦中断することに決めたらしく、コーヒーを淹れる準備をしている。 生臭いオイルと香ばしいコーヒー豆の香りがあたりを漂う。

「みんな、わたしのこと女って思って意識してるのかな」

「…なにかされたか?」

豆をグラインドする手を止めて、先生はこちらをちらりと見やる。

「ううん、そういうんじゃない、むしろ逆」

「ほう。…コーヒー、おまえも飲むか」わたしは首を振る。「今日は客にもらったラムのボンボンがあるんだがな」先生はわたしの返答なんて最初から聞く気もなかったのだろう。いらないと首を振ったのに、用意しているマグは2つ。

「先生だけだよ、わたしを特別扱いしてるの。みんなもっと同じように扱ってくれる」

先生は返事をしない。わたしの目の前にコーヒーを置いて、自分はひとくちすすっている。ああ、入れたてのコーヒーのいい香り。ナッツみたいな、枯れ葉みたいな。

「ねえ、先生、かなしい」

魅惑的なかおりたつコーヒーを無視して、先生の黒いカッターシャツをひっぱる。聞いてよ。ちゃんとわたしの話を聞いて。
先生は一瞬、目を大きく見開いた、気がする。シャツをつかむわたしの手を、上からかぶせるように包んで、先生は、

「どうしようもなく悪い子だな」

そう呟く。

「おれがおまえを特別扱いする、本当の理由が知りたいか?」

わたしは黙ってうなずく。やっとおしえてくれるんだ。でも、なんだか開けてはいけない部屋の扉を開けてしまった気分。悪いことをしてしまった気分。先生は、どうしてこんなにもったいぶるんだろう。
「そうか」先生は、おもむろに床に片膝をついて、下からわたしの顔をみつめる。しっかりと、瞳をとらえられる。頬を、大きな手のひらでつつまれる。ふたりの熱が溶ける。

「逃げるなよ」

声と同時に、先生の顔がゆっくりと近づいてきて、そのまま、やさしくやさしくキスされる。

「…ほら、もうわかったな、仔犬」

ああ、やっぱり先生のそばは、深くて静かでとまらくなりそうな、とんでもなくいい匂いがする。不真面目なわたしはもうとっくに、それに酔ってしまっているのだ。


(20-10-02)



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