俺たちの主殿は週末になると、ひらひらしたものを着ている。
週末は俺たち刀も審神者業も休みで、みんな思い思い自由に過ごしている。俺も朝から風呂に入ってすぐ、紺色の麻の浴衣を着ると、縁側で横になっていた。隣では鶯丸が茶を啜りながら涼しげな顔をしているが、季節は夏だ。俺は溶けそうになりながら、風鈴の音を聞いていた。
「のんびりしてるね」
後ろから声が聞こえて、振り返る。
「お、主」
「お陰様でゆっくりしているよ、君、お茶でもどうだい」
「鶴丸にはいらないと言われたんだがな」と鶯丸は恨めしげに俺を見てから、主の顔を覗き込む。こんなに暑くて蒸しているのにさらに熱い茶を飲むなんてどうかしている、確かに俺はさっきそう返事をした。
「じゃあ、いただこうかな」
主が嬉しそうに頷くと、鶯丸はゆったりと立ち上がって「君はよくわかっているな、少しのあいだ待っていてくれ」と湯呑みを持って去って行った。
俺たちの主殿は週末になると、ひらひらしたものを着ている。
「ありがとう鶯丸」と声をかけた主が俺の隣に腰掛ける。視界にひらひらが入り込んできて、ああ主だなと感慨に浸る。主はひらひらしたものを着ている。なんだか白っぽくて、淡くて、やわらかい地の。でもきちんと肌を隠す、花の花弁のような洋服を着ている。俺たちの中の誰一人そんなものを着ないので、新鮮だ。
「きみはどうしてそんなに、ふわふわとしたものを身につけるんだ」
俺がそうたずねると、主はびっくりしたように笑って、
「暑いから、風通しが良くなるようにね」
と告げた。ならば浴衣を着ればいい。これは酷く涼しいぞ。 そう俺が不服そうにすると
「おやすみの日くらい、和装をときたいの」
「そうか、きみにとって和装は動きにくいか?」
「そういうわけじゃないんだけど、なんというか」
そこまで言って、彼女は少し考えるような仕草をする。
「そうね、気分よ。ずっと和装をしていると、かしこまった気分になってしまって、自分がただの人間だってことを忘れちゃうから」
「こういう服を着るのは、私が人間の、ただの女であることへの戒めね」主はそう、真剣な顔で語った。
「きみは本当にまじめだな」
俺が感心していると、彼女はそのひらひらを引っ張るようにして見せてくれた。
「どれ、少し触れてもいいかな」
起き上がって、彼女の真隣に腰掛ける。尋ねながら、そのふわふわとした布を指で追う。「もちろん」彼女が笑って、俺も笑った。
「おお、やっぱりやわらかいんだな」
「そうでしょ、それに、木綿や麻よりすこし薄いかもね」
「何かの膜みたいだ」
驚きだなあ、と俺は彼女の腹の辺りを撫でる。触れていると、本当に彼女が自分とは異なる素材でできた生き物のような気がしてくる。そうだ、もちろんその通り。俺は神で彼女は人間だし、俺の姿は男で彼女は女だ。まったく異なる、真逆ともいえる存在。遠い遠い存在。なぜだか心の臓あたりがグッと狭くなる心地がして、俺はほんの少しだけ焦る。頭の中に、不穏な、気弱な気持ちが広がっていく。か弱く儚く脆い、彼女の存在が、離れていってしまうような、そんな。
「なぁ、もう少し遊んでもかまわないか?」
「いいけれど、どうするの?」
彼女が頷いたと同時に俺は体を少しずらして、彼女を後ろからやんわり抱き込んだ。「こうするんだ」と耳元で囁くと、彼女は一瞬身を硬くしたが、嫌がるそぶりは見せない。できるだけ友好的に、すなわち性的な匂いのしない触れ方で、彼女の身を辿っていく。薄く、細く、でも確かに彼女はここに在って、この柔く、儚い布地の中に収まっている。俺は息をついて、安堵した。
「鶴丸、どうしたの」
「きみの存在を確認したくなったんだ」
「ふふ、変な鶴丸ね」
「だってきみと俺はこんなに遠い、不安にだってなるさ」
「どうして?今だってぴったりとくっついているくらい近いじゃない」
「そうじゃない、見えない距離の話だ」
彼女はそういうと一度首をかしげてから「ねぇ鶴丸、目をつぶって」と言った。
「何も考えないで、何も聞かないで、私に触れている、その手のひらや体の感覚だけを感じて」
言われた通り、脳みそを空っぽにして蝉の音を鼓膜から剥がして、彼女の身を強く抱いた。するとどうだろう、彼女の鼓動と、俺の鼓動が一緒に動く音が伝わって、まるで1つになったような心地だった。
「…こりゃ、いいな」
「そうでしょう」
「それじゃあきみにも、お返しだ」
俺は手のひらで彼女の両目を覆って、もう一度強く抱き直した。
「きみも、俺のことだけを感じてみろ」
彼女は驚いたように息を飲んで、そのあと静かに、俺に身を委ねた。
するとどうだろう、とてつもない安堵が襲いきて、これもこれでなかなか乙だ。体温が上がって体は汗ばむが、そんなことどうだっていい。俺の腕の中の、彼女の世界は俺がつくっている。そんな感覚さえ覚えて、どんどん満たされた。
「このまま時が止まればいいな」
そう呟いた瞬間、別な足音が聞こえて、俺と彼女二人きりの儚い世界が崩れていく。俺が腕の力を弱めると、彼女はぼーっとした瞳のまま、自然な調子で俺から離れて座り直す。
「主、茶だ」
鶯色の友人が湯呑みを3つ、盆に載せて現れて、「仕方ないから君の分も持ってきてやったよ」と俺に微笑みかけた。
俺と彼女、ふたりの体の中にあの世界が収縮していって、俺たちは普段通りの本丸に戻っていく。彼女のひらひらした服は、ふたりの世界への入り口だ。これから先、何度あの世界に飛び込むことができるのだろう。次の機会が楽しみで、俺はフワフワした気持ちのまま茶を啜った。
「なかなかいいな、鶯丸」
「夏に楽しむのもいいものだろう」
鶯丸は見当違いな応えをした。それもそうだ、やっぱりそんなわけなのだ。俺と彼女、二人の世界は誰にもみえない。俺は少し満足して夏空にグイッと伸びをした。
(16.10.16)