目をさますと、鼻の先っぽが凍ったように冷たい。窓は結露して曇りまくっていて、手足は冷えて震えていた。お布団だけはふかふかと暖かくわたしを守ってくれており、つまりここはわたしの国。
ボォッと目ぇ開けて、白い天井を見つめる。今、こうして身動きができないのは彼のせいなんかじゃない。まごうことなく自分のせいなんだと感じる。
家にいたい、あなたのこといつでも考えられるように。家にいたい、あなたのこといつでも忘れられるように。わたし、どこにも行かずここにいたい。そう思っていたのは本心で確実で真実で。そしたらどこへも行けなくなった。知ってるでしょ?私こんな最悪な女じゃなかった。なんでこうなったのか、自分でも全然わかんない。わかんないのだ。
ガシャンガシャンとドアノブをひねる音がして、黒い影が近づいてくる。ああ彼だ。彼は次の瞬間、いつものように、布団に横たわったままの私に、冷たい視線を向けてくるはずだ。
「今何時だと思う?」
ほら私の鼻先よりも凍った声。
「しらない」
「そう、まあ何時だって関係ないんだろうけどさ」
時計なら、おととい、この男に壊された。ヒステリックに床に叩きつけられて、粉々になった。
部屋にズカズカと入り込んだ彼の足元は今日も今日とて土足のままで、何度も靴を脱げと忠告しているけど聞かない。外国人でもあるまいし、可愛い嫌がらせにしては度が過ぎているけど、私はそんなこたァどうだっていいのだ。そんなこといちいち気にしてられない、そういうところに存在している。「寒すぎ、外気と変わんないじゃん。暖房くらいつけたらどう?」おおげさに吐かれたため息が、部屋中に広がる。あ、生きてる温度がする。
「ねえ、仕事も遊びもやめてそうやって毎日毎日ベッドのうえに横たわったままで、楽しい?」
「…まったく」
「ハッ、そりゃそうだろうねえ、無様だなあ」
スツールをこっちに引っ張ってきて、ベッドサイドに腰掛ける男。布団に守られた私の腿の上に土足のままの両足をドカンと乗せて、満足げに笑っている。
「なんというか、ほとんど死体だよね」
「…」
「あーツマンナイ、ぜんっぜんダメ、超ツマンナイよ、お前。やることが全部退屈な上に空回りしてるし頭悪そうだし生産性もないし腐ってるしそもそもこの部屋には正気ってものが一切ない。いつからそんなにツマンナイ人間になったの?」
吐き気がする。わたしの腹部の上、足をバタつかせて攻撃する男を、無表情で見つめ返す。そうすると自然に、パチリと目が合った。
「…死ねよ」
瞬間、眉をしかめられて、呟かれた言葉はきっと、私に向けられたものだ。ああ、いつも、私はそう言われると泣きたくなるのに。ガンガンと目の奥から泉のように、水があふれて止まらなくなる、そんなイメージはできているのに、なぜだか涙がでてこないのよ。
「なんでだろ」
わかんないのだ、全部が、ここまでの道のりが、私という人間が、あなたという人格が、わかんないのだ。
「…なんでだよ」
ほらね、彼もそう言っている。わかんないのだ、全部が、ここまでの道のりが、彼の方法が、私のキャパシティが、わかんないのだ。
ツマンナイ、ツマンナイと言うなら来なきゃいいのにな。あんたを待ってる私なんか見捨てて、こんなところに来なきゃいい。そしたら私はようやく死ねる。死ねよというくせに死なせてくれない。死にたいのに私は死ねない。この物語の結末を、私にはまったく思い描けない。
ねえ、いつか、一緒に、うみべを、ゆっくり歩いたね。かすかに覚えているんだよ。あの日、私は笑ったね。あの日、あなたはキスをしたね。何年キスをしていないかな、何日笑っていないかな、どうしてここまで来ちゃったのかな、あなたはあの日と同じままかな。ねえ、私はあの日から何か変わってしまったのだろうか。
「臨也。わたしたち、知らないうちにさ、来ちゃいけないところに来ちゃったんだね、きっとバッドエンドだったのよ」
ぼんやりとしたまま、私はうわごとのように紡ぐ。彼は俯いていて、表情は読めない。
「…俺に理解できないことなんて、世界に存在しちゃいけないよ」
消えてしまうような情けない、子供のような声で返事されるとつい、あなたの笑った顔を思い出す。あなたも私も笑顔の作り方、遠い昔に置いてきちゃってる。なんでこんなことになったのかな、どうしてかな、誰も望んでなかったのにね。
「きっとバチがあたったんだよ、臨也が悪いことばかりしてるから」
おかしくなって、一息に言い切って、ふうっと目を閉じる。次に開けたとき、臨也がほんの少し顔を上げて、ワッと一粒、涙を落とした。そのとき私の心はいっぱいになって、嗚咽が出た。何ヶ月ぶりの心だろう。私の目からもたくさんたくさん涙がこぼれて、懐かしくて、手のひらで拭うことに一生懸命になる。
「ばか、笑うなよ」
言われて気づいた、わたし、笑ってるね。あなたも少し笑っているよ。
cogoeru(2016.02.05)