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マリッジブルーと海のその後をほのかにイメージしています)



昼ごはんは何がいい?いつものように娘にたずねると、どこでご馳走になったんだか、フレンチトーストが食べたい!と言った。そんなのご飯にするのは嫌よ。と言っても、ぜったいに食べたいの!と聞かないので、仕方なくつくることになった。わたし自身、フレンチトーストなんてもの食べるのは、ずいぶんと久しぶりだったけど、これ以上見ないふりをしても、どうしようもないと思った。ふうと気持ちを落ち着けて、湧き出てきそうなモヤモヤを押し込めた。いつもの、淡い、ボタニカルのエプロンをつけてみたら、いつかとは比べものにならないくらいに、大人になっているのを実感した。エプロンはいつも、旦那さんがプレゼントしてくれたのを、することにしている。

手を洗って、大きなボウルに卵とミルクと三温糖をたっぷり。それからバニラエッセンスを三滴まぜる。バケットをナイフで切ってそれにひたして、すこしのあいだ見守っておく。娘がはやくはやくと急かすから、残ったバケットの端っこをあげた。

熱いフライパンにバターが溶ける音を聞きながら、わたしはすうと眠くなる気がした。それはすぐに、じゅうじゅうとパンが焼ける音に変わって、わたしはふと懐かしい、黒い薄い背中を思い出す。朝、わたしよりも早く起きてしまう彼が立つ、不釣り合いなくらいに白いキッチン。たまに思い出したように優しく、わたしにフレンチトーストとブラックティーをくれた、彼の指、腕、手首に浮き出た血管。いまと比べれば相当に、わがままだったわたしをほんのたまに甘やかす彼が漂わせる、懐かしい甘い匂いは、いつも手の届くところに浮かんでた。彼がつくるのは、シナモンのかかったフレンチトーストだけ。ちょっと甘すぎると言ったら怒って、辛いくらいにカルダモンをかけられてしまったこともあった。

ぼーっとしているとふわり、お砂糖のこげた匂いがしたものだから、急いで端からひっくり返していく。わたしにはまだ、フレンチトーストは早かったかなあ、と思う。でもそんなことを言っていたら、いつまでたってもこの子にフレンチトーストを作ってあげられない。あれのおいしさをいちばんに知っているのは、なんといってもこの、ママだと思うわ。と、胸を張るくらいでいなくっちゃ。

深呼吸をして、アイスはあったっけ?と娘に聞いた。たくさんあるよ、だって、大きい箱に入ったバニラアイス、一昨日パパが買ってきてくれたもん。彼女はそう言って冷凍庫をあさった。レイディボーデンが好きな彼女に、旦那さんはいつもお土産をくれる。優しくて、あたたかくて、遠くまで見通す目を持つひとだと感動する。だけれどそんなふうに旦那さんを尊敬すればするほど、あああの人はこんなことしてくれなかった、と(悪い例ではあるけれど、)彼を引き合いに出してしまう。たまにいつまでこうなのだろう、と思う。自分でも呆れたもので、都度都度、うっすらと彼を思い出すのが習慣のようになっていて、それだけがわたしのなかの彼を、生かしておく手段のような気すらしていた。さいきんは育児に家事に、お仕事に、すっかり彼のことも抜けかけていたはずなのに、どうも、いけない。鍵をかけたネバーランドに、いつしか幻想を抱いていたのかもしれない。

ほら、できたよ。ナイフとフォークを一生懸命に並べている娘を呼んで、かわりに大きなスプーンを出してもらう。ふた切れずつのフレンチトーストを、白地のお皿にもって、その上にスプーンですくったアイスをのせる。すごい、アイスものせるんだ!彼女は目をキラキラさせてそれを見つめている。愛おしいなあ、と思う。彼女のためにはなんだってしてやりたいし、命をかけたっていいと思うのだ。だけど彼女が、いま、フレンチトーストをつくるわたしの心情を知ったらどう思うだろう。大人になれば気づくこと。だけど純粋無垢な、幼い彼女の目には、きたならしい嫌なママにしか見えないだろうから、早くいつものママに戻りたい。

おいしそうでしょ?うん、ゆーちゃんちのよりもっとおいしそう!メイプルシロップをかけて、そのあとにきちんとシナモンをかけた。よし、できたよ、さあ食べよう。そう言ってわたしがどうぞと合図すると、彼女は至極うれしそうにいただきますをして、ナイフとフォークでバゲットを切っていく。まだおぼつかない動作だけれど、ずいぶんにうまくなったなあと感心する。

これ、すっごくおいしい、ママは食べないの?彼女がそう聞くから、わたしも笑ってナイフをとった。バケットを切ると、すっと湯気が立ち上る。彼女が丁寧に置いてくれたフォークに目をやると、いつか握りしめたそれだった。そのままフレンチトーストを口に運んで、ひとつふたつと咀嚼すると、心だけ、向こう側に連れていかれた気がした。顔の全部で笑ってくれる旦那さんとは違って、片方の口角だけを吊り上げて笑うあなた。冷たくて白い指で、わたしの瞼をなでるあなた。背骨のかたちのキレイなあなた。いつも唐突に、シナモンの香りをつれて、わたしを抱きしめにくるあなた。「迎えに行ってやってもいいよ」だなんて言うくせに、一度だって来やしなかったじゃない。なんだかんだと文句をいっても、いつもわたしの幸せを願ってくれたあなた。無駄に勘のいいせいで、自分のためだけに動くことのできないあなた。最後まで、遠まわしに遠まわしに、優しかったあなた。

あなたはしあわせでしょうか。

ママ、どうしたの、アイス、溶けちゃうよ。娘の鈴の音のような声を聞いて、わたしはやっぱり間違えてなんかいないと気づくの。強がりなのかな、そんなことはないと思うでしょう?あなたならきっとそう言うね。今はもうわからないけれど、答えはもう聞けないけれど。

わたしはね、ただ、みたことのない場所へ、いけると思ったのよ。今も昔もそれだけ。それだけ。

あなたにしあわせが訪れるよう、今度はわたしが願っておくわ。あなたをわかって、愛してくれるひとのいる未来を、わたしがきちんと願っておくわ。あなただってわたしの、いのちをかけてまもりたいひと。

ママ、ねえ、ママ、泣いてるの?どこか痛いの?
ただね、あなたもいってたね、守るべきものが増えれば増えるほど、重たくなってしまうって。ほんとうに、ほんとうにそのとおりだと思うから、あなたの言うこと、少しわかるわ。あなたが、わたしを荷物だといったこと。だけれど手離したくないのだといったこと。だって、今のわたしはどうみても、あなたのところへ飛んでいけるほど、身軽じゃあ、ない。

平気よ、平気、それよりもフレンチトースト、おいしかったでしょ?これはね、ママの大切なひとに教わったメニューなのよ、あなたにもいつか、教えるからね。


海や、魚や、白いシーツ、排気ガス、後ろ姿やフレンチトースト。あなたはいつも、さいこうに意地悪で、さいこうに甘ったるかった。振り返ってみれば、ながいながい道のりだったし、たくさんたくさん泣いた気がする。あなたをみならって、わたしの光だけをあつめて、ここまできたの。だからね、わたしはこのままあなたを糧に、歩いていくわ。ねえ、ほんとうに、ありがとうね、臨也、わたしだけのピーターパン。




prism.(13-03-15)




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