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恋人と喧嘩をした。
喧嘩というほど大したものではなく、ただ行き違いが起こっているだけなのかもしれない。しかし私は、恋人のことが好きかどうか分からなくなってきている。彼に対しての情はあるし、私がここで彼と別れたって良いことはひとつもないだろう。社会人として忙しくなってきて、私もそろそろいわゆる適齢期だ。彼は立派な社会人で、自立している優しい人。これを逃して人並みに幸せになれるとは思えない。

ざばっと前髪をかきあげた。太陽が眩しくて、少しうるさい。味気のない人生だなあと思う。

他人というのは本当にわからない。理解ができない。向こうにも向こうの良心があり、言い分がある。私には私の言い分があるが、それは相手にとって絶対の正義ではない。わかっている、しっかりわかっているので、どうしようもない。大人はワガママを通すことなどできない。
嫌だ嫌だと駄々をこねたり、本気でぶつかり合う喧嘩なんて、学生時代を最後に、大人になったらできっこないのではないか。持っているものが多すぎるのだ。捨てられないものが多すぎるのだ。親、親戚も死んでいき、このまま一人になって、もしうっかり結婚できたとしてもなんの心の繋がりもなく、一人ぼっちで死んで行くのではないか。人間というのはつくづく可哀想な生き物だと思う。脳みその機能の大半は悲しみを作り出してしまい、その悲しみに対しては無力としか思えないからだ。

ガシュっとライターを鳴らして、タバコに火を付ける。タバコを吸うのは何年ぶりだろう。

何もかもがうまく行きそうにないとき、私はいつも、学生時代付き合っていた男のことを思い出す。今どこで何をしているか、詳しくは知らないけれど、相変わらず派手にやってるみたい。胸糞悪い、腹の立つ男だった。でも、ひとを惹きつけるカリスマ性を、ばっちり持った人間だった。彼のように自由気ままに生きていけたら、ちっぽけな後悔はしないだろうなあと思う。彼には彼の苦労があろうが、私とは次元の違う苦悩なので、なんだか感情移入しにくい。だから阿呆のように憧れる。あの、黒い影。どうか元気でいろよ、と思う。

他人というのは本当にわからない。言葉だけでしか意思疎通できないくせに、その言葉というものはこの世のどんな発明よりも未熟である。ぜんぜん進歩の兆しの見えぬ、負の遺産だ。他人というのは本当にわからない。かといってわからない他人たちを切り捨ててしまえるほどの、勇気も可能性もない。私には、何もないのだ。
学生の頃はよかった。私はなんでも持っていて、世界はどんどん輝いていた。まだ柔らかい他人とぶつかり、お互いに形を作り合っているような気分になれた。あのアクの強い男でさえもまだまだ発展途上で、弱さや優しさを垣間見せる瞬間があり、その一瞬が私たちを結びつけていたのだ。確実に繋がっていた。

今や、社会も世界も、苦痛である。ハァとため息をついた西口公園のベンチで、鳩に囲まれる。そうそう、鳩なんか、いいじゃない。痛覚以外の苦しみがなさそうだ。私も鳩になりたい。平和の象徴になりたい。ジリジリと焼け付く太陽から逃れようと、日陰に移動する。だいぶ時間が経ったようだった。

「なまえじゃないか、懐かしい」

ふっと呼ばれて顔を上げると、今の今まで思い出していた学生時代の恋人の姿があった。

「……久しぶり臨也、私のことなんかよく覚えてたね」

「あいにく、人間の顔を覚えるのは得意でね」

「丁度あなたのこと考えてたとこなのよ、鬼のようなタイミングのよさね」

「へー、何年も顔すらみてない俺のこと考えてたなんて、君ってすごく一途なんだね?」

「やめてよ、大人なんだから。もう一生会うことはないだろうなと思ってたの」

「なあんだ、期待して損したよ」バカにしたように両手を上げて、彼は笑いながら近寄ってくる。

「それより、まだタバコなんて吸ってるの?やめた方がいいよ」

私の口元からタバコを奪い取って踏み潰す。リズムを刻むようにステップを踏んで、隣に腰掛ける。この人はいつも風のようだなあ。

「いま火をつけたばっかりなのに」

「早死にするよ、あと、すごく不快」

言葉に似合わないヘラヘラとした顔で侮辱されて、なおさら元気がなくなる。こいつはとことん他人の生気を奪うやつだ。なんとなく懐かしく感じる。さんさんと照りつける太陽と彼はなんとも不釣り合いで、とろりと溶けてしまいそうだ。不健康な肌の色が眩しい。

「臨也、忙しくやってるんじゃないの」

「そうだねえ、君には検討もつかないくらいに忙しいね」

「こんなところで暇潰してていいわけ」

「ハハッ、昔のコイビトが見るも無残な顔で不貞腐れてるからってわざわざ声かけてあげたのに、その言い様?すこしは俺の慈悲深さを讃えて欲しいものだよね」

相変わらず憎まれ口の上手さは健在で、むしろどんどん拍車がかかっているように思うが、私も昔に返ったように不思議とそれに慣れていた。ウーンと伸びをする臨也をみて、一段と華奢になった気がした。ちゃんとご飯は食べているのか、体の調子は悪くないか、無茶して怪我をしてやいないか、少し不安になる。大きなお世話だとわかっているので、口には出さないけれど。だって私は、もう、すっかり大人なのだ。

「あんたは楽しそうね、毎日好きなことしてて」

「退屈なら死んだ方がマシだからねぇ」

「本当に子供みたい、羨ましいわ」

「でもさあ、俺は思うんだよ」

よいしょっと立ち上がる黒い背中からは、いつかの、懐かしい匂いがする。高校の屋上や、帰り道、セーラー服の裾、彼の派手な赤いシャツと短ラン。血や愛や涙や暴力やタバコの煙。吐きそうなほどに濃度の濃い、あの頃の風景が私にとって、きっとずっと異常だったのだ。

「君には、ありきたりで無味無臭な毎日の中に平凡な苦痛を感じて、無様で簡素な人生を終わらせてくのが、すっごく似合ってるって」

いつから遠ざかったかなんて、もう覚えてはいなかった。臨也と私が一緒にいた日々なんて、夢だとさえ思ってた。まだまだ未熟な臨也と、もっともっと情けない私。それは全部私が作り出した妄想なんじゃないかとさえ思っていた。退屈な今の私からしたら、そのくらいに非現実的な日々だった。でも確かに、彼と私の間にはある時間が存在していたこと、たったいま彼がおしえてくれた。少しだけ、安心した。そして目の前の彼を愛おしく思った。

「いざや」

「うん、昔からそうだ、誰よりもそれが似合ってるよ、なんの面白味もない君なんだから」

「俺が言うんだから信じなよ」こちらを見ずにサラサラと言葉を並べて、歩き出す。挨拶もなく、すぐにその背中は見えなくなった。いきなり現れて、いきなり消える。彼そのもののようだった。お別れを言わなかったのはきっと、二度と会うつもりがないからだ。昔から、悪役の振りをするのが、いちばん上手な人だった。

「臨也、やっぱり私はあんたのこと相当好きだったみたい」

小さな声で呟いて、携帯を取り出す。喧嘩中の恋人に、きちんとごめんねを言おう。ありきたりで平凡で、なんにもない私でも、愛してくれたあなたがいた。今だって、愛してくれる人がいる。陳腐な悩みを抱えるのが相応しい、バカな私でもあなたが言うこと、すこし分かったわ。きっとこれからも臨也の存在が、その言葉が、何度も私を救うのだろう。輝かしく大事な思い出には、きちんと蓋をして忘れるべきだ。戻るなんてことはしない、ただ、それを肯定してくれただけで十分私は満足だ。




君は僕を忘れるべきだ(15.06.28)




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