「格子窓のすぐ向こうに、わたしたちの生きる世界があるのに、この部屋の温度はこんなに緩やかで、いいのかしら、と思うね」
彼女は俺の腕の中でさえ、ぼんやりと呟く。罰当たりみたいな気がする、なんて、彼女はいつもそんなことばかり言っていた。
「ふだんが目まぐるしくて物騒でギリギリで、だからこそ、今がなおさらあったかく感じるんじゃないか」
俺はふと、薄っぺらに彼女をたしなめるけれど、たぶん効果はない。言っていてすこし恥ずかしくなった。
「たまにね、いやだなあ、と思うよ」
「んー?」
「目も当てられないほど汚れているのに、こんなに綺麗な空気の中にいて、いたたまれない気分になるのよ」
俺は「そうか」とだけ呟いて深呼吸をした。彼女のにおいが肺いっぱいに広がるのを感じる。たしかに、きれいだ。
「やっぱり、罰当たりだわ」
「そうかもねえ」
俺は彼女を抱きしめる腕の力を強くして、それから目を閉じた。「ま、でも、幸せに生きてるってこと自体は、悪いことなんかじゃ、ないじゃないの」そう言うと彼女は諦めたように笑ってすり寄ってきた。「たしかにそうね、ありがとう」「どーいたしまして」
言葉なんて、なんの意味もないのを知っている。言葉に頼り切るには、おれたちは少し年をとりすぎてるね。そんなこと、お互いにわかりきってるんだ。わかっているのに、ときたまに、形にして許してもらいたいって思う感情も知ってるよ。それを毎日おくびにも出さず、君が頑張っているのだって、分かってるつもり。
「ねえ、でもさ、こうやって寒い冬に二人でぬくぬくあったまって、命ってもんをありがたがるってのも、なかなかできることじゃないヨネ」
「そうね。このまま、冬眠するみたいに眠り続けて、すっと溶けてしまいたいなあ」
おれがみているのはただ、君の横顔、睫毛の動き、四季のうつりかわり。昔には気づかなかったことも、きちんと気づくようになってしまって、気づかなくたっていいことに、苦しめられるようになった君。おれの手で目をふさいでしまって、耳をふさいでしまって、そうして幸せになれるというなら、いくらだってやるよ、でもさあ。
「そんなことしなくたって、おれたち、いつか死ぬんだし、このまま生きてしまうんだ」
だから見ておこうよ、ねえ、この世界を。おれたちには生きる使命があたえられてるんだ。それに従ってるから、いきてるんだ。そうでしょ?きちんとみて、感じて、悲しんで、そうして笑う、義務がある。そんな使い古された、当たり前みたいなことをいっても、君は救われないだろうから、おれも救われた試しはないから、口になんか出さないけれど。でも、わかるよ、なんでみんなが、そんなあさはかな事ばかりいうのか。
「だけど、おれは、どうしたって、おまえを生かしていたいんだよ」
ごめんな、ごめんな。なんの正義ももたないおれは、君のいのちだけを乞う。君だけ生きていてくれと、それだけでなにもいらないと、おもう。ごめんな、ごめんな。おれのことだってどうでもいい。君さえいれば、君さえ消えてくれなければ。そのまま歌うように、いなくなってしまいそうな君を、ひきとめることさえできるなら。
さあ、わらって、わらってくれよ。もうすぐ春がきて、そうして夜がきてしまうんだ。
落日(13-12-26)