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例えばあの時、頬が冷たいと呟いたなら、貴方の瀟洒な両の手は私の心の奥の底までも奪い去ってみせたのでしょうか。例えばあの時一言でも多くを、貴方に伝えることができたなら、私の脳裏にいつしかの、真白が焦げ付くこともなかったのでしょうか。例えば私がこんなこと、今更嘆いたところで貴方は、いつの話をしているんだ、とそう言って笑うのでしょうか。(せめてそうしてくださればいいのに。)私が意地になってこの場を、まんじりとも動かぬ間に、貴方がどこまで遠退いたのかなぞ皆目検討もつかず、こうして相も変わらずに、消えかけた貴方の残り香に、縋り縋りも生きているばかりでございました。穢らわしいと、浅ましいと、ひとつお笑いになってくださるのならそれだけで、私はどれほどまで救われるでしょう。そんなことすら叶わずに、現に貴方は思い出よりも、眉間の皺を濃く刻んで、私を見下ろしているのです。無口なままで、まるで哀れんでいるのです。

「お前はよォ、いつからそうだったんだ?」

溜息つく、小さな音すら愛おしい。意味など私には分からないけれど。貴方が口を開いた途端、私の視野は昔の様に、少し怪しい色をした、柔い空気に支配されてしまうのです。すっかり征服されてしまうのです。

「…みて、十四郎さん、雪よ」

そして私はまた難しい話なぞ何も聞きたく無くなって、美しいものばかり見る、ただの阿呆に成り下がるのです。貴方の前では何時よりも、随分低俗で能の無い、阿呆になってしまうのです。だから何も言わないで何も言わないで。

「私、十四郎さんと見ているこの雪、懐に隠しいれてしまって、ずっと持っていたいんだわ」

「いつしかも確か、そう思ったの」

「だって、美しくって、私、羨ましいったらないわ」

「消えてしまえるなんて、あんまりにも、ずるいもの」

「ねえそうでしょう、十四郎さん」

貴方が困ることを分かって、私は次から次へと畳み掛ける様に、しかしゆったりとした調子を崩さず、行手を塞いでみせるのです。これはもうとっくに私の十八番(おはこ)で、貴方は例の如く、所在無げに瞳を揺らすことしかできやしない。否、優しい優しい貴方には、それしか術が無い。

「覚えては、居ないでしょう?」

「私、あの日、若草の着物と濃い臙脂色の外套を着てたわ」

「貴方はトゥイゝドの着物に首巻きをして」

「覚えては、居ないでしょう?」

もう消えてしまいそうなほど遠くの約束を引っ張り出して盾にして、あなたを傷つけ続けるわたしは、なんと愚かでしょう。覚えてなど居るわけがない。そんなことは分かっているのに。

「なあ、お前」

「江戸には十と三年も、雪が降った試しがねえよ」

「てめぇの上にいま降ってんのは、てめぇの引きちぎった繦(むつき)の屑だ」

「なあ、見えてくれよ、聞いてくれよ、なあ」

「お前はいつからこうだったんだ?」








女は昔と同じような仕方でニコニコと笑って、部屋いっぱいに散らばった真白の綿やら羽やらを手で掬っては天井に放し、掬っては目一杯微笑んでいた。「みて、十四郎さん、雪よ、ねえ、みて」突然訪ねた俺に驚きもせず、十三年前と同じ仕方で喜んでみせた。六畳のそこには当然、雪なんぞ降るわけもあらず、しかし、気温は外に負けないほどに冷え切っていた。空調はないらしく、ひとつ、申し訳程度に置かれた石油ストウブの電源ひねりは折られ壊されていた。皮肉にもそれは出ていった誰かさんのやさしさだったのかもしれず、彼女は一酸化炭素中毒になることもなく、こうして生き永らえてしまっている。

「いつからこうだった?」一定の距離を保ったままで馬鹿のように、それを聞くことしかできなかった。ましてや彼女を抱きしめしっかりしろと言ってやるなぞ、臆病な俺にはできっこなかった。俺は彼女が蔵元の次男と結婚をして子供も持ってごく普通に幸せに生活していると、噂に聞いていた、そう信じていた。最後に彼女から届いた手紙も、転居と式に関しての案内というあまりにも平凡なものだった。だから彼女の生活がこんなふうになっているとは、思ってもみないことだった。

目を付けていた宗教団体に国土法違反の嫌疑をかけて、ガサ入れをしたのはひと月前のことだった。そこでまんまと大量の違法薬物とデエタベイス、それから重役名簿を押収し、 その名簿に二頁目先頭に載っていたのが彼女の夫の名だった。近藤さんはともかくも、俺まで知っているほどに名の知れた問屋を営んでいた男だったためすぐに裏をとることができ、とんとん拍子で逮捕に向かった。そしてやっと事が落ち着き、彼女の様子をという近藤さんの計らいで、俺は有給を消化しがてらここに来た。ここは彼女の夫の収入には見合わないボロアパアトの二階最奥の部屋だった。アパアト内ではいちばんに広い、しかしその代わりにつくりつけのような二間だった。

着いてすぐにひと気のなさを感じた。一、二ヶ月の話ではなく、もうずっと人間が生活をした形跡がなかった。部屋を開けると子供ももいなけりゃ彼女もいない。ぐずりと動いた押し入れの戸を開けると、そこに彼女が丸まっていた。しまわれていた布団の類は引きちぎられ、繦を抱えて震えていた彼女は俺の顔をみた途端、生気を取り戻したように、わらった。

「お前はいつからこうだったんだ?」

それからずっと、そう問うことしかできないのだ。








十四郎さんはいつまでもいつまでも怪訝そうでいるから、わたしは悲しくなってしまいます。わたしは、あなたのことを、あなただけをずっと待っていたのです。だけれど、待っているだけではまた、逃げられてしまう。だけれど、泣いていてはあの人にされたように、首を絞められてしまう。

どうしようもないのです。笑うしか、方法がないのです。私は笑うしか、もう能がないのです。戻れるのなら、あのいつかに、私をあの日に戻してくださいまし。例えばあの時、頬が冷たいと呟いたなら、貴方の瀟洒な両の手は私の心の奥の底までも奪い去ってみせたのでしょうか。例えばあの時一言でも多くを、貴方に伝えることができたなら、私の脳裏にいつしかの、真白が焦げ付くこともなかったのでしょうか。ああして、阿呆のように押し入れの隅でシクシクと、留まることとなかったのでしょうか。貴方は私を、置いてはいかなかったのでしょうか。

他のことはよく知りません。私のすべては確かではありません。ずっと長い間、海の底のほうを泳いでいた気もいたしますし、お空のもっとはるか彼方、飛んで行った気もいたします。ただ雪さえ降れば貴方が、ただ貴方が、向かえにきてくださるやもしれない。この雪の降らぬ地に雪さえ降れば貴方が、迎えにきてくれるはずだわ、とそうしていつも隅っこで、雪を降らしてはお祈りをしていたのであります。もう、逃げないでください、もう、私を、置いてゆかないで、と。私だけのこの雪國で、いつでも雪をお降らせするから。ねえ、ねえ。


yukiguni(13.11.11)



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