階段下には深海がある。
彼女はたまにそう言っていた。
彼女が月に1、2回、夜遅く部屋を抜け出して、どこかにいくのは知っていた。だけど昨日のは最悪だった。
一ヶ月の長期任務が早まったから、教団をでて17日、連絡なしに帰ってきた。彼女の好きなスノウボールクッキーが2箱入った紙袋をぶらさげて、彼女を思って馬鹿みたいに早足で部屋に戻った。
シャワーをあびて着替えをすませて(本当はそれすら億劫だったのだけど、白いベッドが汚れてしまうといけないから)、彼女の部屋に向かう途中、彼女がふらりと廊下を横切るのを見た。ゴーレムで誰かと話しているらしい。変な笑顔をはりつけて頷いて、それから走っていってしまった。
彼女が月に1、2回、夜遅く部屋を抜け出して、どこかにいくのは知っていた。おれもさすがにガキではないから、それが何を意味するのかも知っていた。だけどいざ目の当たりにしてしまえば頭を鈍器で殴られたみたいに、気が遠くなった。
「ラビ、早く帰るなら言ってくれればいいのに」
「ごめんごめん、思ったよりもちょろかったんさ」
「いつもいつも、そうじゃない」
彼女が俺の横で笑ってる、それだけでじゅうぶん満足な気がした。昨日のいらいらが消えたわけではないけれど、俺はそれだけで満足できた。
「…なあ」
「ん?」
昨日はどこにいってた?なんて野暮なことは聞かずに長い髪を撫でる。
「すき」
すくって、キスをして、みつめて、それから目を閉じた。まるで儀式のようだと思う。俺は馬鹿の一つ覚えみたいにこんなことしか囁けないから、このままいっそ、彼女の細胞の一部になれたらいい。
「ラビはわたしと本とお肉、どれが一番すきなの?」
本当は、どれも不可能だなんてわかってる。俺は彼女を構成することも、満たすこともできない。俺は、俺である前に、ブックマンなんだって、そんなことはよーくわかってる。
「もう。お前はすぐ、そうやって意地悪いうんさね」
「真剣に言ってるのよ」
「俺ばっか一生懸命で馬鹿みたいさ」
俺ばっか、俺ばっかだ。だけどそれでいい。だからこそ、彼女がどこに行こうと止めないし、咎めたりもしない。俺にはできないとわかっているから、あえて安心させてやる努力もしない。俺は普通の男が、してやれることをしてあげられない。わかってるから、それでいいんだ。自分勝手な野郎でしょ?嫌ってくれても構わない。そうしたら俺はお前から離れてやれるから。
「うそおっしゃい」
でも俺はね、お前にさよなら言われない限り、しつこくずっとそばにいるつもりさ。だから、はやく、はやく、
「ちなみに、わたしは、そうね、このスノウボールクッキーと同じくらいには好きよ」
その笑顔を、ほろほろ溶けるクッキーみたく、くずして睨んで蔑んで。このままお前をさらうことも壊すことも、いっしょに逃げることさえできない俺は、ただの甲斐性なしなんだ。きっとそういえばお前は、知ってるって笑うけど、知らない。知らないさ。なんも。
「やーっぱおればっかさ」
「だっておれ、お前のこと、酸素と同じくらい必要だもん」
俺はそうやってどこにもいけないままで、お前を支えてるつもりでずっとお前に寄りかかってばかり。過去を捧げることもできなければ、これからもずっと、何ひとつ返してやれないんさ。だっていまだってこうやって、お前を許すふりをして、俺ばっかりを守ってる。大人みたいに何事もなく装って、笑って、反対にお前を縛り付けてんの。何もできない代わりにさ、何をしたって怒らないから、どうかどこにもいかないで、お願いだからここにいて。
「それならね、ラビ、証拠にあなたの名前をちょうだい」
階段下に深海がある。
彼女はたまにそう言っていた。
おれはそのたびひたすらに、
『ラビ』を羨ましく思ったものだ。