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雨は空をきれいに洗って、朝がきた。肌をさすような冷気と湿り気、夢みるほどきれいに朝がきた。

わたしはおとぎ話を信じないし、くっきりできた目の下のクマを消す方法も知らないけれど、まだおぼろげに覚えているのです。わたしはいつか、こんな世界に生きていた。いつもと何ら変わらずに、働くわたしの朝が来た。そのはずなのに、オレンジのような紫のような今朝に気持ちが悪くなる。月は白くて雲は藍色。足はまだパンパンに張ったままで、愛の確信もないのです。しんと静まる街を過ぎれば、わたしは電車に乗せられる。いつものように行くのです。ひとは一人で生きていけないと言いますが、協力するしがらみもたいしたもので、壁ばっかりにぶつかるのです。合わせることとお金の勘定、妥協をしながら生きていくこと。どこにもいきたくなくてわたしは、ひとりで部屋に閉じこもりたい。夏にいちばん死にたい気分。わたしはどこにも属すことなく、しあわせにいきたいと思うのです。至る所にみずうみができて、わたしはそれを飛び越えて歩く。


今はもう、何年も前のことですが、夜の向こう側をみせてよと笑った。海辺の街でわたしは誘った。そしたらあなたは、喜んでって言ってわたしの腕を引くの。それからはもう一瞬だった。わたしが、あなたが、大人になる前に、わたしに夜の向こう側をみせてよ、みせておいてよ。あなたを忘れてしまう前、しっかりと決まりをつくってよ、ねえあなた、そんな顔しないで。って。遠くに近くに、ネオンのカラフルが光っていた。東京の夜はからくって、汗ばんでいる。砂の匂いと火薬の匂い。臨也はわたしの手を引いて走っていた。小走りに進んでいた。つかまれた右手は、千切れそうに熱かった。

「どうか、遠くへいってしまいたい!」

そう叫んでいたわたしの声はあの日を境に、途中でぷつりと途切れたのだった。かすかな揺れ、かすかな変化、かすかなジャズスウィング。わたしの心臓と右腕は連動してうずいていた。わたしのことを最もよく知っているのはきっとわたしで、この現状にだって、わたしは冷静であると勘違いしていた。夜の向こう側なんてそんな遠いところでないとそう安心してたかをくくって、たぶん、わたし、あさはかだった。かわいそうだ!って誰かがわたしの代わりに嘆いてくれていた、気が、した。

夕暮れは遅くて、朝焼けは早い、これらはすべて速度の話。風が凪げば時は止まるし、あなたが走れば時代は変わった。若いわたしには、すべてがそんなものだった。

「君はもうすぐ、向こうへ行かなきゃいけなくなるんだね」

息を切らして、足を止めて、あなたはこちらを振り向いた。少しでも引き留めてくれるなら、わたしは行かない。そう言いたかったけれど、言わせてはくれない。だってあなたは進まないもの、だってわたしは進むもの。わたし、あなたが好きよ、だっていつもそこにいる。ああわたし、あなたが好きよ、だっていつも夢をみている。

「楽しかった、いとしかった、本当に」

俯いたあなたのその顔をみせて、わたしの好きなその顔を見せて。なぜわたしは行かなきゃいけないの?どうしてみんな制服を脱ぐの?どうしてみんなお金を稼ぐの?どうしてみんな進んでゆくの?どうしてみんな、死ぬの?楽しかっただなんて言わないで、感想なんて聞いてないのよ。甘い甘いラズベリーパイばかりを食べていたいのに。どうしてそんな風に、わたしの背中ばかり、押そうとするの?

「さあ、あの角を曲がれば、君は消えるよ、おれと同じ世界戦、ここから消えるんだ」

ほらみてご覧、夜の向こうだ。いい子だから振り向かず進んで。
すぐに死にたくなって、すぐに幸せになって、ただいっしゅんを信じたね。あなたといっしょにいたのはいっしゅん。たったいっしゅんだったのでした。


そしていま、遅すぎる蝉も早すぎる蝉も可哀想だとわたしは思った。すり寄ってくる野良猫を可哀想だとわたしは思った。夏にいちばん死にたい気分。本能と慣習の、区別のつかないわたしたちが、抗うことは異端なのです!




夏にいちばん死にたい気分(13.09.05)



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