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過去を振り返って、いくつページをめくっても、どこかに必ずその黒がちらついている。浅い夜の新宿や夕暮れの池袋はもちろん、深夜の水道橋、明け方の新代田、真昼の代々木上原。そのすべてに、彼は、折原臨也はいた。
思い出す、というほど遠くもないが、いつだって触れるほどの距離にいたとは言い難い。折原臨也は神出鬼没で、だけどなんだかんだでわたしの一歩先にぴたっと寄り添うように、踊るように、いた気がする。時に疫病神のように面倒ごとに人々を巻き込み、 時に天使のように甘く不確かな予言を与えた。とにかく、わたしにとって折原臨也は、たまにくるりとこちらを振り向いたかと思うと、ぴゅっとどこかへ消えてしまって、また素知らぬ顔がして戻ってくる野良猫のような。そういうふうに折原臨也は、東京の街に、そしてわたしのそばにいたのだった。


「最近さあ、世の中、つまらないよねえ」

折原臨也らしくない台詞に、思わず彼の顔を凝視する。
うーん、とうなりながら、投げる視線はふわふわと天井あたりに漂っている。彼が座っているハーマンミラーのセイルチェアの、リクライニングはぐっと沈み込み、薄い上半身をやや斜めに倒していた。
これは大きな独り言なんだろうか。それとも、万が一、わたしに投げかけられている言葉なのだとしたら、同意したほうが良いのだろうか。

来客用のソファでもしゃもしゃと、そのへんにあった高そうなバターサブレを食べながら読書に耽っていたわたしは、怠惰にゆるめていた身体にちょっとだけ力を入れ直す。
彼の言葉に、耳を傾ける。

「金なんかいくらでもあるんだよ。腐るほどある…なんてよく言うけどさ、ありがたいことにお金っていうのは腐らないわけ」

「そうね。腐ったら困る」

「うん。金がいちいちタンスで腐ってたら資本主義なんかやってらんないよね。…たださあ、持ってるだけじゃ意味がないんだよ。こんなの、持ってるだけじゃ、ただの紙切れなんだぜ」

そう言ってつまらなそうな顔をした折原臨也は、おもむろに一万円札をパンツのポケットから引っ張り出す。まるで汚いものに触れているかの如く指先でちょこんと摘まみ上げると、その紙幣を、ぴらぴらと空中に泳がせるかのように揺らした。

「ほら、みて。つまんないでしょ。こんなの」

はあ、とため息を吐くと、もう一方の手で机の上のキャビネットを開ける。
あれはいつだったか。ふてぶてしく「タバコなんか吸わないけどさ、最近新しいオイルライターが欲しいんだよね、おれ」とぼやき続ける臨也に、わたしが贈ってやったZIPPO。見慣れたそのライターを引き出しから取りだすと、じゅぽ、じゅぽ、と滑車を滑らせる。特有の音が立つ。するとオイルにぼわっと火をつく。
あろうことか、折原臨也は紙幣を、その炎に近づけて、にっこりと笑った。とてもいい笑顔。一万円札はしばらく抵抗したのち、ゆっくりと燃えていく。黒く揺れる煙をあげて。「ね、やっぱりつまんない」だなんて、同意を求めるように、折原臨也はしっかりとわたしの視線をつかんだ。

「要するに使い方さ。お金の価値っていうのは、使い方次第で決まるわけ。ただ人より多く所持しているだけで豊かだなんて勘違いしちゃいけないよ。あまりに愚かな思い違いだ…まあ、そんなさまも人間らしいと言えばそうだし、別にいいんだけど。」

わたしはクッキーを貪る手をとめないままで、眼差しだけを彼の指先に、瞳に、じっと注ぎ続けた。

「最近つまんないっていうのは、つまり、そういうこと。世界があまりに画一的になって、清潔になって、白一色に塗りつぶされてる。新宿も池袋もずいぶん綺麗になったよね。影という影が白昼の元にひきずりだされて…ホームレスも不良も、ヤクザだって、まるでダンゴムシみたいに退化した目をゴシゴシ擦りながら、明るみに這い出てこざるをえなくなった」

深く吐くため息は、いつだってどこか色っぽい。彼の憂いはみずみずしいものなんかではなく、暗くニヒルな澱みの中に浮かんでいるというのに、その横顔はこの世のものとは思えないほど美しいのだ。

「おれの大好きな手料理だって、ホットクックみたいな最新の調理家電だとか、宅配のミールキットなんかに頼ったとたん、差異はどんどん小さくなる。おれの大好きな人間たちも、ロボトミー手術を受けたみたいに、そのうちぜんぶ一緒になっちゃうのかもしれないよね。」

「そしたらさ、おれは、一体何を愛せばいいんだろう」臨也は指についた黒い灰にふうっと息を吹きかけながら、「おれの愛はどこへ行くんだろう、煙みたいに消えていくのかもしれない」と嘆いた。
その声は珍しくセンチメンタルで、不安定に揺れていた。臨也にとって、人類への愛が消えることは、生きる意味が消えることに等しいのだろう。

「わかってるんだよ。混沌や悪夢や差別や夢が、すべて均された世界で、"折原臨也"が生きていくことなんて出来ないって」

そう呟いた臨也の顔は泣いているみたいで、でも涙なんかはもちろん出ていなくて、上手に泣くことすらできない彼を、わたしはひどく愛しく思った。

そしてわたしはその感情をまるごと飲み下すべく、目の前のマグカップを手にとった。

わたしには、過去をあなたと生きていたわたしには、「それじゃあ目の前の人間を、例えばわたしをすきになればいいじゃない」なんて、口が裂けても言えない。
本当は、言ってしまいたいくらいに愛してるのだけど、そんなこと自分でもわかりきっているのだけど、だからこそ世界で一番、言えないよ。あなたを理解しているつもりのわたしは、あなたの新しい"生きる意味"なんかに立候補できない。

ねえ、でも臨也、何も、泣くことではないよ。

時代が変わる。
人類がつくる世界では、変わってしまうことだって、人類そのものの美しさのなかに織り込まれているのだからさ。
わたしもあなたも、みんなこうして忙しなく生きて、きっとゆっくり死んでいくんだろうね。



さよなら僕らのフリーダム
(23.10.29)



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