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「突然だけど、そろそろ君も、"自己"と"他者"の区別がついてきたころかな」


折原臨也は血液みたいに暗い赤色のワインを傾けながら、愉快そうに笑った。


「君は昔から、その2つを混同して考えてた節があった。」

「そうでしょ?」きれいな顔がふわりと緩む。一見すると優し気で、心をゆるしそうになる笑顔。だけど、目の奥が笑っていないのをわたしは見逃さない。手元のワインの色に似た、ガーネットがじっとこっちを見据えて、離さない。

「俺は人間が好きだけど、自己のない、つまりある種のエゴの自覚のない生き物は好きじゃないんだよ。人間っていうのはね、みにくい欲望の塊だからこそ意味があるのさ。」

「それなのに君は、今までずっと、その身体の中にきれいにエゴを隠して生きてきた。見事なまでにね」臨也が一歩一歩、ゆっくりとこちらに近づいて、気づいたころにはすぐ目の前にいる。

「慈愛…とでも言うの?」

目の前でもう一度、にこりとわたしだけに笑いかける。
こんなに美しく、完璧につくりあげられた笑顔を、しらない。臨也がみせてきた表情の中でも、きわめて異質だった。顔だちも、その表情の機微も、これ以上ないほどにきれいなのだけど、表面が能面のように冷たく、硬かった。

「ほんと最悪だよ。自己犠牲的であるという自覚すらない気味の悪さ。他人のために自分が傷ついたり、泣くようなことになったりしても、なんとも思わないで、反省もしないで、さんざんズタボロになってさ。女神様にでもなったつもり?偽善的すぎると思わないのかな。」

「何者にでも平等に注がれる愛なんてね、そんなの愛じゃないんだよ。」臨也は、自分のことをまるごと棚に上げて、わたしをそう貶した。
あなたこそ、人類愛だなんて言って、神様か何かのつもりなの?と、今にも食って掛かりそうになって、それでも口に出してしまわなかったのは、わたしがにわかに気づき始めていたからかもしれない。
彼のくちびるからいま紡がれた”愛”というのが、どういうものを指すのか。彼がいつも口にしている”愛”とどう違うのか。そしてこれは、もしかしたら、本当に恨み言なのかもしれないという事。彼にとっては無駄なことを、完全に無駄であったことを知ってしまったことに対する、恨み言なのではないかと。


「君は昔からそうだった、それについて俺が口を酸っぱく意見しても、少しも聞きやしなかった。」

臨也はあきらめたような顔をして、わたしを見た。
あまりにも冷たい目線を向けられて、思わず鳥肌が立つ。

「たしかにさ、他者に自分の意見を無理やり押し付けるのはどうかと思うよ。エゴは大切なのだとは言え、何事もやりすぎはいけないしね。他人に、己の愛を押し付けたり、生きる意味を問うたり、そういう興ざめなことはしちゃいけない。その点では俺も、多様性ってものを重んじるべきだ思ってるよ。個人の思想的自由は大切だ、尊重し合って生きていかなきゃね。」

「…ただ、君の場合は、いけないな。どうしても、見てるだけで、そんな様子が視界に入るだけで虫唾が走るんだ」細い指がすっと伸びてきて、心臓のあたりを指さすように突き刺される。ごくり、恐怖に急かされて、生唾を飲み込む。
すると臨也のくちびるは弧を描いたまま結ばれる。口角をあげて、まるで楽しむみたいに怯えるわたしの瞳を見ている。「ねえ、気づいてる?」


「……そろそろ毒が回ってきたころだ。」

「毒?」

「そう、毒だよ。俺が何年も前から君の体の中に仕込んだ、遅効性の毒さ」

そういうと臨也は胸元をさしていた指をつうっと移動させた。わたしの鎖骨、首筋、そして顎のあたりをなぞるように撫でる。無力なわたしは身じろぎもできず、まるでたった今から捕食される動物のように、指の動きを目で追うだけ。
指先は、そのままわたしのくちのあたりで止まる。くちびるを抑えるように、指の腹を押し付けられる。


「どう?俺のこと、愛してるでしょう」

指先を視線で追えなくなったわたしは、目の前の捕食者の瞳を見つめる。
ガーネットの虹彩はこれまでのどんな時よりもぐらぐらと揺れて、眼のふちはほんのり色づいていた。まるで待ち望んでいたみたいに眩しげに目を細める臨也の、呼吸はほんのすこし乱れている。

ああ、やっぱり。
やっぱりこの人は、愛を知ってしまった顔をしている。


「…愛してるわ。だって、」

わたしは慎重に言葉を選ぶ。
彼がそうしたように、慎重に。

だけどじれったくてしょうがない。
真理はもう目の前にある。

「だって、臨也は、わたしを救おうとしたんでしょう?」

我慢のできないわたしはひといきにすべてを明るみにさらしたくて、早急な質問を返す。

ねえ臨也。あなたはいつからか、わたしが無意味に傷つかないように、わたしが人より多く泣かないように、あなたらしい不器用で回りくどいやり方で、こうして守ってくれたんでしょう?それを愛と言わずしてなんというの?まぎれもなく個人的な、ひどくエゴイスティックな、人間としての愛だわ。あなたの大好きな”アガペー”なんかじゃなくって、そう、”エロース”のほうよ。なのに、それなのに、あなたはまだあなたのままだから、愛をも、毒だと言うんでしょう?

あけすけなわたしの言葉が、じりじりとした空気の中を泳いでいく。
臨也は一度だけ大きく目を見開いて、忌々し気に眉を顰めると、くちびるを噛みしめる。

「ほら、そういうところ。最低だよ。」

「わたしはエゴなんかありませんってフリをして、そうやって、他人の懐にずかずか入り込む。君がいつまでも知らんぷりをし続けるからさぁ、気づいたときにはもう、愛してた。知らないうちに愛してたんだよ。こんなことってある?…ほんとに、ありえない。」臨也は重く深いため息をつくと、額に手を当てて、うつむいた。

「だからね、俺は君が、大っ嫌いなんだよ」

次の瞬間にはふわりと抱き締められていた。
触れて初めて感じる臨也の体温も、吐息も、胸の鼓動も、想像よりずっとずっと熱くって、わたしの脳はぐらぐらゆれた。

ああ、
この感覚を、毒のせいだとあなたがいうなら、
あなたの毒はもうとっくに、
わたしの身体をむしばんでいた。


毒を飲むなら愛の盃


(22.01.01)



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