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この人が次に目を覚ます時は、
世界の終わりかもしれない。

世界が終わるその時に、みんながもうだめだと覚悟を決めるその瞬間に、いきなりぱちりと目を開けて、この人は人類をすべての危機から救ってしまう。それゆえ今、昏々と眠り続ける、そんなシステムなのかもしれない。
なんて、ばかげたことを想像してしまうほど、その眠りは深くて、静かで、確実だったし、その姿はどうしても美しくて、強くて、絶対的だった。

悟は、こうしてたまに突然うちに押し掛けてくる。前触れはない。そして、何をするでもなく勝手に冷蔵庫を覗いたり、本棚の漫画や本を読み漁ったり、ときどき昼寝をしたり、とことん自由気ままに過ごして去っていく。

必要以上に距離を詰めたくはない。
常々そう思っている。この人は人間性に至ってもどうも不可思議で、なんというか、ひとを余計に苛立たせるくせに、他人の懐に入り込むのが素直にうまい。わたしに対しての場合はそれが特に顕著で、不満があってひどく怒っていたはずなのに知らぬ間に赦してしまっているし、氷が溶けていくようにみるみる絆されてしまうのだ。いっしょにいると心のバリケードがいつの間にかぼろぼろになって、感情のタガや理性がどろどろと崩れている。そんな気がする。
だからこの人が近くにいるといつも怖い。うちに突然やって来るのだって、ぜんぜん嫌な気はしないのに。嫌な気がしないところが恐ろしいのだ。いつ飲み込まれてしまうかを待つだけの、飼い殺された獲物のように、わたしはびくびくしながら、どうしても離れられないでいる。

だから、彼が眠っていると幾分楽だ。
こうしていざ眠ってしまえば、わたしは彼を恐れなくて済む。きっと今すぐに陥落される心配はない。だから、少しだけ気を抜くことができる。どうしてうちでわざわざ昼寝するの?と聞いても、釈然としない答えしかくれないけれど、眠っている悟はいくらか無防備で、優しくて、こわくない。


わたしは張り詰めていた緊張をほどくと、一人分のハーブティーをガラス製のマグに注いで、悟がねむっているローソファーの横に腰かけた。気づかれないように、ちいさく伸びをする。本を読もうと思って、しばらくいくつかの行を目で追っていたけれど、なんだか集中できない。内容が、頭にのこらない。
びゅう、と春風が部屋に入り込んでくる。
素肌をゆるりと吹いていく。
悟の方を何の気なしにちらりと見ると、長いまつげがふわふわと風に撫でられていた。白い扇のように生えそろって、きらきら光を受けて光っているそれ。その下には、うっすらと疲れが見える目元。いくら美人だからって、いくら最強だからって、この人も人間なのだから、時たまこうしてくたびれたりも、するのだろう。なんだかすこし意外だった。虚を突かれたような気分。


今、たしかめてみたい。

ふと思った。
肌の質感や、彼を取り囲んでいる疲れや隠し通している弱さ。血液の流れ、体温や、皮膚の揺れ、そのすべてを一度だけ、たしかめてみたい。この恐怖の正体を、恐れの原因を、照らし合わせて、たしかめてみたい。そう思った瞬間、ほとんど衝動的に、手が伸びる。指の力を弛緩して、なるべくやさしく、やさしく、気づかれないように。そう意識して触れる。目元に、頬のなめらかな丘に、指をしずかに滑らせる。


「…どうして触るの」

突然かけられた平坦な声に、びくりと身体が震える。引っ込めようとした手首は、まどろみをふくんだ熱い手のひらにつかまれて、ぴたりと止まる。ハッと息をつめて彼の顔を見ると、びくともしなかった瞼がするりと簡単に開く。透き通った、だけれどいくらか遊色の入った、宝石のような空色が、じっとこちらを見る。猛禽類みたいだ。わたしは狙いを定められた獲物のように全身を硬直させる。
数秒前の自分の、ひどい愚かさを恥じた。自身のか弱さも忘れて、とんだ命知らずだった。恐ろしいものに、自分から手を伸ばしてしまった。あろうことか、触れてしまった。

「聞いてる?どうして僕に触るの」

「こっちから触ろうとすると、いつも逃げるくせにさ、ひどいと思わない?」はくはくと、息を吸えども吸えども言葉が出ない。悟はしばらくわたしのことをじっと強く見つめたままだったけれど、少しして、はあ、と大きく息を吐くと身体の力を抜いた。「はぁ、もう、なんで理由なんか…」彼は聞こえるか聞こえないかの声でぶつぶつ呟くと、手首がふわりと解放される。

「そんなに怖がらないでよ」

「…ごめん」

「なにそれ、傷つくな。今すぐにとって食ったりしないよ」

「僕が最強だからって、君は僕を怖がりすぎ。呪いよりずっと怖がるじゃないの」呆れたように、不貞腐れたように悟は言そうと、もう一度深くため息を吐く。
動悸がぜんぜん収まらない。恐怖とも、緊張ともつかぬ胸の高鳴りが、どうしたって止まらない。はあ、はあ、と浅い呼吸を繰り返す。身体を起こしてローソファに座り直したらしい悟は、頭上からわたしを見下ろしている。みられている、そう思うだけでまた息が上がった。

「…困ったな」

悟の声があまりにもやさしくて、思わず顔をあげてしまった。
すると子どもみたいに甘い顔をした悟の指が、ゆっくりこちらへ伸びてくる。わたしの頭を、お返しとばかりに撫でる。とても、熱い。

「じゃあ、悟は、どうしてこの部屋に来るの」

やっと静かになった心臓をおさえながら、わたしはうわごとのようにそう尋ねた。なぜそんなこと、今更聞きたくなったかなんて、よくわからない。頭に酸素が届いていない。ただ、この苦難の状況において、すべての元凶は悟がうちへ押し掛けてくることであると、勝手に動き回る神経細胞が、脳内が、結論付けたのであろう。こんな異常事態、防がなければならないから。

「…それ、理由が必要?」

悟は眉をひそめて、そう返す。

「ええ、大人だもの」

「大人じゃなかったら、理由がなくて、いいんだ?」

「僕が、もし、大人じゃなかったら」淡白に、途切れ途切れに言葉が紡がれる。言葉遊びのようなものだ。現に、わたしたちは大人なのだから。

「もう、大人だよ。わたしも、悟も。」

「そうね。残念なことに、年齢だけは立派な大人だ」

わたしのほうに向けていた眼差しを空中にふわふわと漂わせる。
きれいな横顔は西日に照らされたオレンジ色に光っている。

「世界は騒がしいよ」

「忙しなくて、慌ただしくて、たまに嫌になる」そう言って、悟は目を伏せて、ぎゅっと長い手足を伸ばした。

「逃げたくなる。そうだろ?」

「…ま、たまにだよ、ほんのたまに。それに、もちろん僕は逃げたりなんかしないけどさ」悟は冗談を言うような口調で、ちょっとだけ笑いながら話す。かりそめの笑顔。
だって、目の色はしんと静かな海みたいだ。

「うん」

わたしがじっとその瞳の中を見つめていると、悟もちらりとこちらを見て、それで、

「たまに、誰でもなく、ただの一人の人間でいたい時だってある」

「だからさ、理由なんて聞かないでよ」そう言うと、指先でわたしの手の甲をとん、とつついた。
わたしはその動作にはっとして、すぐに手のひらを返す。長い指先に自分のそれをからめる。なかば強引に。
悟はちょっとだけ動きを止めて、親指を、すこしだけ迷わせてからやさしく、わたしの人差し指に沿わせた。
このひとはすべての態度が早急なくせに、触れ方がいちいち、優しくておぼつかない。こちらに逃げる隙があるくらい、いつも戸惑っていて、ふわふわしている。
きっと、そういうところに絆されている。
子どもみたいで、動物みたいで、かわいいところ。


「それじゃあ悟、わたしが」

「ん」

「さっきわたしがあなたに触れた理由も、尋ねたりしないで」

「どうか、聞かないでよ」そう言うと悟は目をまん丸にしてから、はじけたようにくすくす笑った。ぎゅっと、手のひらを握り返した。

「そうだね、たしかに野暮だったかも」

「お互い何も聞かない、それでいい?」

「ウン」

「それがいい」悟は安心したようにふわりと微笑むと、小さくあくびをかみ殺して、「もう少し眠ってもいい?」と聞く。悟らしからぬ、遠慮がちな声で。だけどどこか安心できる、ゆるんだような表情で。
わたしは心の警戒をゆっくり解いて、「うん」と言ってそれで、彼のまつげに触れた。悟はびっくりしたように一瞬、顔をこわばらせてから、やけに満足げにまぶたを閉じた。ウン、それでいい。これが、いいんだ。


(21.12.24)



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