book | ナノ


「君の神様になってあげようか」

折原臨也はそうのたまう。

「さぁ、今日からおれが、きみの宗教だ」

真夏なのに真っ黒なアウターを着込んだ折原臨也は、そう笑って、ひらりとステップを踏むようにかろやかに歩いた。


・・・


生きているうちに手に入るものなんて、たかが知れている。
ただ、より多くを手に入れたいと望むのも、この程度でいいやと途中で歩みを止めるのも自由。多くを手に入れようとする者には当然のごとく面倒ごとが増えていくわけだし、たとえ望むものが少なかろうと正反対の二つはどうしたって手に入りにくい。わたしたちが手に入れることができるものなんて、たかが知れている。だからこそ、取捨選択をする。本当に欲しいものだけを見極めて、それを狙い撃ちしようとする。
…そんなの人生をうまくやるための定石なんだろうけど、どちらにせよなにかを諦める羽目になる。生きれば生きるほど、捨て去らなければならないものが増えていく。手に入らないものが増えていく。ああもうなにもかもめんどくさい。希望なんて持つべきではない。最初から、死んだように生きた方がずっとマシ。期待したって裏切られるんだから、欲も愛も夢も、最低限の低燃費モードで生きてくべきだ。死にたいのに死にきれないわたしたちは、地獄のような大都会で、死人のように生きていく。


「ばかだなあ」

折原臨也は夜の街にとけるようなその黒いコートをひるがえして、くるり、とこちらを向いた。このニヒルな笑顔をぴったり張り付けた細面の男こそ”わたしの神様(仮)”だ。
この神様はどうやら、わたしのどうしようもない下降思考に一石を投じようという、謎の気まぐれに駆り立てられているらしいのだ。


「欲しいものは全部、手に入れたらいいんだよ。なにひとつ逃すことなく、ね」

火をつけようとわたしが手に持っていた煙草の箱を無理やり奪い取ると、「どうせ生きるんなら、もっと貪欲に生きなくちゃ」そう言って、ぐしゃり、それを手のなかで握りつぶした。

臨也さんくらいですよ、そんな無謀なこと、実際やってのけてるの。わたしは凍り付いた心で彼のあまりにぶっとんだ言動を一蹴する。準備をする。

「普通は、一生のうち手に入るものなんて、限りがあると思いますよ」

折原臨也の手からはらはらと煙草の葉やちぎれた紙片が落ちていく。
こぼれていく。
わたしはただ、それを目で追うだけ。

こんな言葉たち、何の意味もないのだとわかっている。
この人の、赤い眼の、ぎらぎらした美しい視線の、届く範囲では言い訳なんて何の意味ももたないのだと、わたしは知りすぎている。
それでも考えるのをやめられないのはやっぱり、わたしの心が悪魔にとらえられているからだと、そう言うの?あなたはいわゆる”神”だとうそぶいて、まるで救世主のまねごとをしていて、だからきっとそう言うの。
ほら、愉快そうにあがった片方の口角。
薄い唇が、満を持して開かれる。


「ねえ、それってさ、保険をかけてるだけじゃない?」

「保険?」

「もし欲しいものが手に入らなくても、自分の人生をふがいないものだと思わないように、仕方ないって後から諦めて納得できるように、保険をかけて逃げてるだけなんじゃないの?」

「そうやってダサい保身ばっかりしてると、すぐにつまんない人間になるよ」ぐりぐりと、折原臨也に踏みつけられる、煙草の箱であったもの。
冷たい心が、内側からふつふつと、熱くなる。
ああ、あのときとおんなじだ。すべてが、あのときとおなじ。


・・・


「…おれと賭けをしようか」

あの日、後ろから後光のように光が差して、真っ黒な折原臨也が影絵のように浮かび上がった。まるで神の子。偶像崇拝の許されない人々にもたらされた唯一のイコン。そう言われたら、わたしは信じてしまったかもしれない。
折原臨也は呆れるほどに神々しかった。

白い肌がハイライトのように光って、瞳は真っ赤に燃えている。
だけど折原臨也は神様なんかじゃない、こんなにも悪魔的。だってただそこに立ってるだけで、世界のどんなものよりも不穏なんだから。

それなのに、

「君が三年後、欲しいものを諦めて腐っていたら…つまり、きちんと貪欲に生きることができていなかったら、俺が君をもらってあげる」

「は?」

「俺が生きる意味をあげる、って言ってるんだよ」

「とことん使い潰してあげる、こんなふうにさ。光栄でしょ?」さっきわたしの手のひらから取り上げたタバコの箱。それは黒いレザーシューズに踏んずけられてぺちゃんこに地面に張り付いて、見るも無惨な姿になっていた。


「穢れた欲望だって、叶わない夢だって、敵わない愛情だっていい。へんに達観しないでさ、人間らしく愚かに生きてみなよ。きみに人生を悟る器なんかない。だから、おれはせめて、つまんない人間になってほしくないんだ」


「ああ、それとも今すぐに、」折原臨也はへらへら笑いながら、タップダンスのようにかろやかなステップを踏む。そして、気まぐれのようにこちらに視線を向けると、打ち抜くように鋭い眼でわたしを見た。


「君の神様になってあげようか」

折原臨也は、そうのたまう。


「さぁ、今日からおれが、きみの宗教だ」


・・・


「…”おれがきみの宗教だ”って、おれはあの日、たしかに言ったよね?」

「だからきみがおれの思想に、指針に、そして理想にとやかく口出しすることは、絶対に許さない。あってはならないことなんだ。」真夏なのに真っ黒なアウターを着込んだ折原臨也は、そう笑って、ひらりとステップを踏むようにかろやかに歩いた。

「おれの言葉だけが、おれの行動だけが、きみの絶対だ。…もうわかるね?」

がらがらと、世界が崩れる音がする。
口先だけは一丁前で、不安だけは人一倍で、それなのにわたしが安定を求めなくなったのはいつからだろう。
いつからわたしは、”神”を語るこの男に魂を売り渡したんだろう。
たしかにあの時だった、なんて確証はない。
身に覚えはひとつもないのに、それなのに、折原臨也につかまれた、心のすべてがずっとずっと、痛くて痛くてしょうがない。毎日痛くて、常に痛くて、その痛みに全部の感覚をゆだねてしまえば、不安も不幸も苦しみも、にじんで溶けてゆく気がしてしまう。あなたが与える痛みだけに、わたしは今日も粛々と身をゆだねる。敬虔な態度で、盲目的な信者のように、ただ粛々と。言われるがまま目を閉じたら、耳をふさいだら、心を止めたら、わたしは泣きながらあなたの言葉だけを、受け入れる準備が整ってしまう。


生命の価値を数えてもそこに
(21.09.14)



×
「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -