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フロイド先輩のことは、もともとすごく苦手だった。
高すぎる背丈も、大きすぎる手足も、あまったるく語尾をのばしたような独特のしゃべり方も、獣のように俊敏な運動神経も。こちらを不躾にじっとうかがってくる瞳も、ゆっくりとひとつずつ順番に歯をみせるように笑う、その笑い方も。
わたしにとって、先輩のすべては究極的に異質で、おそろしく、居心地が悪くて仕方がなかった。


「もしかして、怯えてんの?」

だからこそ、普段からなるべく遭遇しないように心がけていたのに、

「おれのこと、コワイ?キライなわけ?」

ひとけの少ない購買部の裏の廊下でうっかり鉢合わせてしまったとき、終わった。と思った。
頭を抱えていると彼は、わたしの行く手を長い腕でふさいで、これまた放埓に、不思議なことを真っすぐ尋ねてきたのだった。

「い、いえ、そんなことはない、です」

気圧されながらも返事をする。逃げ場を失ってしまったので、仕方なく、彼の顔すら見ずに首を横に振った。嘘はついていない。だって別にキライでもコワイわけでもない。すこし苦手で、ひたすらにおそろしいのだ。
頭上からはうっすらと、でも確実な威圧感。わたしはきっと今、現在進行形で、彼の機嫌を損ねている。そう考えるとおそろしくなる。

「じゃあさあ、なんでおれのこと見つけると、そうやってちょこちょこ逃げンの?」

「ねえ、なんでよ」乱暴に顔を覗き込まれる。眉間にしわが寄っていて、瞳はやっぱり怒っているようだった。だけど口元だけはわざとらしく、面白がるみたいににやにやさせて、フロイド先輩はわたしの顔をじっとみた。
彼を見て逃げるひとなんてこの学園内にはたくさんいて、わたしだけじゃあないだろうに、どうしてこうも執拗に問うてくるのだろう。わたしが彼を避けているのなんて、とても些細なことなのに。わたしはやっぱり、フロイド先輩がぜんぜんわからない。わからないからいちいち苦しくなる。

「それは、その、」

おずおずと口を開くと、待ちかねていたかのようにフロイド先輩の視線がわたしの口元に注がれる。

「先輩が、フロイド先輩が、ほかの人とは違うから」

「あ?」

「ほかの人と、違うんです。わたしにとって先輩は不思議で、違和感ばかりで、なぜかわからないけど、見ているととても不安になるんです。」

フロイド先輩はわたしの告白を聞くと、一瞬ぽかんと気の抜けた顔をする。あまりにも近くで見つめられているから、ライトブルーとイエローの瞳の中で、瞳孔がゆっくり開くようすが見えた。周囲でくるくるとまわる光彩は宝石のように妖しく光っていて、わたしはやっぱり不安になる。冷汗が出て、心臓が高鳴る。動悸、息切れ、きつけ。しんどい。

「…ふうん、おもしれ」

3テンポくらい遅れて、やっと声を出したフロイド先輩は、にいっと口角をあげた。

「ジェイドはどうなの」

「へ?」

「だーから、ジェイドに対してもそういう気持ちになるのかって聞いてんの」

「ジェイド先輩は、別に大丈夫…あ、大丈夫というか、フロイド先輩ほどは、不思議じゃありません」

「あ、そ。」

フロイド先輩はなんだか満足げにうなずいて、わたしの行く手をふさいでいた腕をどかしてくれた。

「んじゃ、もう行っていいよ、気ぃ済んだから。」

ああやっと解放されるのか。
そう思うと肩の荷が下りた気分。脱力感まで襲ってくる気がする。相当緊張していたらしい。

最終確認のつもりでふとフロイド先輩の顔を伺い見ると、先輩は、今まで見たどんな時よりも不思議な、揺らいだ表情をしていた。その顔にぐっと気持ちを引き寄せられてしまって、つい呆気に取られてしまって、足がうまく動かない。
わたしに投げてきた声はいつにもましてぶっきらぼうで淡白だったのに、どうしてこの期に及んでそんな、緩んだ、優し気な、かわいらしく揺れた表情をするんだろう。

こんな顔、みたことない。
わたしはこんなフロイド先輩、しらない。


「ねぇ、行っていーつってんの。聞こえてる?」

「いつもみたいにさっさと逃げればあ?」フロイド先輩はわたしの目の前で手の平をひらひらさせた。

「あ、」

我に返ったように口から声をこぼしてしまう。言葉にはならない。

「なんでぼーっとしてんの」

先輩はすでに、間延びしたようないつものしゃべり方と、ひとのいない空っぽの部屋のような、いつもの表情に戻っている。

「そんなのろのろしてると、ぱくって食われちゃうかもよ」

フロイド先輩は阿呆みたく突っ立つわたしの頬を指でつく。びっくりしすぎて変なうなり声をだしながら眉間にしわを寄せるわたしを見ると「あは、なにそれ。へんなかお」からかうようにけらけら笑った。

こうして冷静に考えてみると、
フロイド先輩は、別におそろしくなんかないのかもしれない。
背丈は高すぎるけれど、話をする時はやや屈んで目を合わせてくれるし、手足は大きいけれど、けっして粗暴というわけではないし、声だって喋り方だって、多少不気味だけれど、わかりやすくまろやかに、こちらに伝わるようにしているのかもしれない。
わたしのなかのフロイド先輩に対する意識が大きく振れる。
あれ、もしかしてこれってストックホルム症候群ってやつかな。人質や拐われた人間がすこしずつ犯人に絆されてしまうってやつ。こんなに短時間ではあれ、確実にわたしは彼の腕に囚われていたから、そのせいでおかしくなってしまったのかもしれない。
そう思ってないとやってられないほど、あまりにも気持ちが反対側に振れすぎている。


「あの、」

心にかかる靄を振り切るようにわたしは、声を出す。

「なに、まだ言いたいことあんの?」

「めずらしーね」先輩は露骨にニコニコした顔で、こちらに向き直る。

「先輩、わたしに、魔法かけました?」

「はあ?何言ってンの」

「だって、あの、」

おかしいんです。急に、先輩のこと、ぜんぜん苦手じゃなくなっちゃったかも。これって絶対おかしいんです。…そう続けようと口を開いた瞬間、かろやかな声に阻まれる。「あー、わかった!」先輩は歌うようにポンと言葉を投げる。その声は、妙に機嫌がよさそうだった。

「教えてあげよっか?」

「へ?」

「だから、教えてあげるって。どうせわかんないんでしょ?なんにも。」

「だって、おれのこと避けてたのも、逃げてたのも、ぜんぜん顔見て喋ってくんねーのも、今そうやってワタワタしてんのも、ぜーんぶおんなじ理由でしょ」フロイド先輩にしては饒舌に、やけにぺらぺら話すなあ。そんなふうにぼうっと口元をみつめていたら、いきなりグイッと制服のネクタイを引っ張られた。にやり、笑った先輩の顔が視界いっぱいに広がる。

あっ倒れる、そう思った瞬間、力強く支えられて、暗転。
くちびるにやわらかい衝撃。

「好きなんだって、おれのこと」

「…気分はどーお?ドキドキした?」肩を押されて瞳をまじまじと見つめられると、一気に恥ずかしくなってくる。一体何が起きたんだろう、全然、わからない。なにもかもよくわからない。わかりたくない、わかりたくないのだ、なにもかも。


「コレでぜぇんぶ許したげる。」

「だって、好きならしょうがなくね?健気だねえ、なまえ」ぺろり、とまるで海蛇のように舌なめずりをしたフロイド先輩は、強く引っ張ったせいで崩れたわたしのネクタイを、きれいな指先で整えた。
今、はじめて名前を呼ばれた。

「あの、せんぱい」

「んー?…はぁい、これでよし」

シャツの襟を折り直して、乱れていたらしいわたしの前髪をかるく撫でると「あのねぇ、だいじょぶ、おれもすき」と笑った。春風みたく笑った。また、初めての顔を見てしまった。


「そんだけ。じゃ、ばいばーい」

片手をひらひらさせて、ご機嫌な足取りで去っていくエメラルドブルーの影。やけに高い背丈、長い手足、間延びした語尾、異様にあまったるい声。

ひとり、ぽつんと取り残された購買裏で、わたしはフロイド先輩のこと、やっぱりすごく苦手だな、と思った。
真っ赤な顔をおさえながら、胸のどきどきが一刻も早くしずまってくれと願いながら、やっぱり、すごくすごく苦手だと思った。

青くさくってぬるい晩夏の風が、身体のまわりをぐるぐると取り巻いて、それからびゅんといきおいよく駆け抜けていった。



(21.08.31)



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