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心地よくエアコンが効いてる室内。白いベッドの上に仰向けに横たわる。遠くに蝉の声がしている。鼻腔をくすぐるホワイトバーチの香りが部屋中に漂って、心を撫でるようにほぐしてくれる、ような気がした。
部屋着のショートパンツから出た足の表面にオイルを塗って、そのままウッドマッサージャーでごりごり揉みほぐしていく。日々の疲れを溜め込んだ身体から、力を抜く。今週も、おつかれわたし。ベッドに仰向けになって腕を同じように揉んでいると、腹あたりにどすんと衝撃が走った。


「ぐは」

かかった圧力に、思わず息を漏らす。

「…ひま」

腹部にめり込んだ金色の頭部から、気の抜けた声が返って来る。

「なにしてんの」

それはこっちのセリフ。聞きたいのはわたしのほうです。わたしの腹の上に埋まった金色はくぐもった声、そしてむくりと顔を上げる。

「ねぇ、ひまなんだけど」

さらにたたみかけるように、わたしの顔をじっと見て万次郎はそう言った。いくらでも遠くまで見通すような、深淵まで深く深く続いているような、瞳が綺麗。
吸い込まれそうになる手前で、わたしはふと正気に戻る。んん、と小さく咳払いする。

「それはそうと、重いんですが」

「重たくしてるからね」

「どいてよ」

「ヤダ」

「…なんか、いー匂いすんね」と、万次郎は言葉とは裏腹に少しだけ機嫌が治ったようでわたしの腹にまた顔を埋めてしまう。すこしだけ、くすぐったい。

「マッサージしてたんだよ、だから、マッサージオイルの匂い」

「マッサージオイル?」

「うん、マッサージするときにつけるオイル」

「なにそれ、そのまんまじゃん」

「そー。大人はいろいろ要り用なんです」

「へえ」またすこしだけぶっきらぼうになってしまった万次郎は、まだわたしのお腹に顔を埋めたままで、どうやら退く様子はないようなので、仕方なくマッサージを再開する。

「なんでわざわざそんなことすんの」

「疲れるから、あとほっとくと浮腫むから」

「ふーん」

「ぴちぴちの君達にはわからないだろうけどね」

ホワイトバーチの香りがくるくると身体の中をまわっている。そこにすこしだけ、甘ったるいような、だけどたしかに青い、万次郎の汗の匂いがする。

「ひますぎて、ねむくなってきた」

「…なら、なおさら退いて」

「ねみー」

さらさらとレースのカーテンが揺れている。
空調をかけているのだから、窓を開けないでと何度も言っているのに、万次郎はなんでだかサッシを開けたがる。息苦しいとかなんとか言ってた気がするけど、自分で開けておいて「暑い」と文句を言うのだから、迷惑なお話だ。

白い天井と、白いカーテン。
揺らめく夏の木漏れ日と、腹部に感じる可愛くておかしな男の子の体温。
天国みたいな情景だ。幸せは、こんなふうに、些細なところに落ちているのかもしれない。

わたしは仕切り直すように「ほら」と声をかけて、彼の手首を掴む。小柄な割にがっしりとした、万次郎の体躯を起こす努力をする。

「ん、このままねる」

万次郎の身体は、しなやかで軽やかで、まるで蝶や鳥のように細やかに動くくせに、こうして脱力すると、まるで岩のように重い。
どうしてもおなかの上で寝ようとする万次郎のかたくなさは、当て付けかのようだった。しばらくわたしのことを待っていて、知らないうちに痺れを切らしていたのかもしれない。すみませんね、気がつかなくて。


「だぁから重いって」

「死にはしねーだろ」

「そういう問題じゃなくてさあ」

「ほら、隣で寝よう」と言うと万次郎の首の角度がほんの少し変わる。腹に突っ伏していた頭が動いて、ちらり、とこちらを見上げるように、片目がみえる。
いまだ!わたしは万次郎の腕をぐいっと掴んで、脇腹に手を当てて、そのままごろりと自分の隣に横たえる。まるで柔道の投げ技のように、万次郎の力をうまく使って引き倒すのがコツだ。だいぶ慣れてきた。
とはいえ万次郎は万全の受け身を取っていて「うお。」とかなんとか口では言いながら、ほんとは半分以上、自分の筋肉の力で投げられていることをよく知っている。だから上機嫌で、わたしに倒される。

「あはは、やられた」

清々しい顔で笑いながら、万次郎はわたしのとなりに仰向けになった。こうされる時はいつも万次郎は、なぜかとても嬉しそうだ。まるで自分じゃない力にわざと負けるのが、心地いいとでも言うように。
わたしが見ていた白い天井を、同じように見上げながら、へらへらと頬を緩めている。

「ねぇ、じゃあ、手ェ繋ごうよ」

にこにこしたまんまの万次郎がこちらに手のひらを差し出す。思ったより大きくて、ごつごつしていて、ほどよく筋張っていて、だけどやっぱりきれいな指先。
引き寄せられるようにわたしも手を伸ばす。
天井にかざされた二人の指先が、木漏れ日を梳いて、きらきらときらめいている。

ぼう、と見つめていると、万次郎の手のひらがびゅんとこちらに近づいてくる。とても速く。あっという間にわたしの手のひらを攫う。
ぎゅ、と握り込まれて、絡み合った指先を見ながら、万次郎はまた嬉しそうに笑った。うん、ものすごく満足げ。わたしの心までどんどん満ちてきて、ホワイトバーチと万次郎の匂い、手のひらから伝わる体温で、ゆるゆるとほぐれていくようだった。


「あついね」

万次郎の手のひらがとても熱くて、だからそう言ったのに、万次郎は「夏だしな」と見当違いな返事をした。お互いの肩がこすれて、部屋着として貸してあげた白いTシャツから、クリーンな、柔軟剤の匂いがする。それにもしっかり、万次郎の匂いが混ざっている。

「なんかさ、このまんま、どこにも行きたくねーって、思う」

「成長したくないし、歳もとりたくない。これ以上はもう」万次郎はそう言って、繋いだままの手を下ろすと、ぐるりと横になって、わたしの肩におでこをくっつけた。

「どうしてそんなこと言うの」

「わかんねー」

「…どこに行っても苦しくて、どんどん追いつかなくなる気がするから、かなぁ」そう言って、ぎゅっと目を瞑る。
この男の子は、こういうところがある。えも言われぬ不安と揺らぎの中で、突然弱々しい声を出す時がある。きっと思春期特有のナイーヴだけでは説明できない、さまざまな業が彼の周りを渦巻いてるんだろう。わたしは万次郎の悩み事を詳しく知っているわけじゃない。ふらりと訪れた彼に、場所を貸して、声をかけて、ほんのすこしだけ、擦れるように触れ合うだけだ。
そんな人間に、何ができるんだろう。わからないまま、何となく声を出す。

「いいよ、どこへも行かないで」

「止まったままで、迷わないでいい。ここにいるときくらい、走らなくたっていいから、万次郎の大好きな今のままでいてよ」わたしがそう言うと少しの沈黙。揺れるまつ毛は人形のようで、たしかに老いや、歳をとってしまうことから随分かけ離れているようにみえる。
だけれどそれはきっと、それは幻想だ。

「ウン」

万次郎は少しだけ声を出して笑って「なまえはおれを、嫌いにならないでよ」と小さく言った。

「なるわけない」

わたしが即答すると、万次郎は「ん」と蛙が潰れたみたいなへんな声を出した。
それから何度か深呼吸したかと思うと、がばり、と起き上がって「目ぇ覚めちゃった」とつぶやいた。

繋いだままのわたしの手をぐいっと引っ張って、戸惑うわたしを抱き起す。

「今からさ、近所、流しに行こ」

「うしろ、乗せてやっから」とあんまりにも爽やかな顔で笑った。
ぶわり、と大きくカーテンが揺れて、夏風が部屋を染めていく。


「…突然だなあ、もう」

わたしは唐突な提案にびっくりしながらも、促されるままにフローリングに足をつける。もうすぐ夕方になるけれど、きっと外はまだ、地獄のように暑いのだろう。こんな真夏日に二人乗りだなんて、暑いことこのうえないと思うのに、わたしはなぜか乗り気だった。
万次郎の目に、さっきよりも生気が灯って、輝いていたせいかもしれない。


部屋着から簡単に着替えて、外出の準備をするあいだ、万次郎はわたしのことをぼうっと眺めたまま、柔和な顔で微笑んでいた。まるで来るはずのない未来を見つめて、それを期待しているようだった。

「現実から逃げても止まらないんだからさ、今、おまえと一緒に走ったほうがいいって、そう思ったんだよ」

視線のさだまらないまま言った台詞は、たしかにわたしに向けられているはずなのに、なぜか空を舞うように不安定で、わたしはなんともいえない気持ちになる。すぐに駆け寄って、抱き締めて、そして、悲しいことなんかすべて取り去ってあげたい、だなんてどうしたって、無理なのに。わたしには、きっと、難しい話なのに。ああ、もう。困ってしまう。
この男の子は、こういうところがある。えも言われぬ不安と揺らぎの中で、突然弱々しい表情をする時がある。きっと思春期特有のナイーヴだけでは説明できない、さまざまな業が彼の周りを渦巻いてるんだろう。わたしは万次郎の悩み事を詳しく知っているわけじゃない。ふらりと訪れた彼に、場所を貸して、声をかけて、ほんのすこしだけ、擦れるように触れ合うだけだ。
それなのに、もっと、もっとそばにいてあげたいと思ってしまう。

この感情に、どうにかして、ブレーキをかけないと。
そう思いながらも止まれないのは、すごいスピードで走り続けている、彼の業のせいなのだろう。きっと、きっとそうだ。


たまらなくて、ぎゅ、と抱き締めた。
なるべく、余計な感情を持たないように、たっぷりと慈愛と友情を含んで、彼の背中に触れた。
わたしの腕につつまれた万次郎は小さく息をのんで、それからやっぱり、きれいにきれいに笑ってみせた。



(21.07.25)




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