book | ナノ


足を踏み外したらとことん落ちていく。この世界はそういうふうにできている。
まあそんななかでも、わざわざ手を差し伸べてくる心優しい人や、さらに蹴落としてくるようなむごい人間性を持つ生き物もいる。でもそんなのは世界の本質じゃない。基本的に一度たりとも休めない、いつまでも続く綱渡りだ。緊張感のあるデスレースだ。

君と約束したつもりはない。
それなのに、交わしたはずのない約束に縛られている。何度無視しようとしても後ろめたさと激しい後悔で、どうしても無碍にできないんだ。

深夜。急に目が覚めて、何度寝返りを打っても寝付けなくて、仕方なく起き上がる。はあ、と一度息を吐ききってそれからフローリングに足をつけた。しんと静まり返るリビングを通り過ぎて、キッチンの冷蔵庫の前にたどりつく。胸がチクチクと痛む。ああ、こういう痛みはぜんぶぜんぶどこかに置いてきて閉じ込めて、忘れてしまいたいのに。

君はいつか「臨也はきっと落ち込んだりしないんでしょう、いつだって平気そうな顔をしてる。だからわたしの気持ちなんかわからない」そんなふうに言ってたな。残念ながらおれだって落ち込む夜もあるよ。こんなふうに、ナイーブな気持ちで寄せては返す憂鬱と闘う夜もある。おれは、君の前でだけ素面でいたいだけなんだろうね。本音も言えないくせに、嘘もうまくつけないくせに、君を手放したくないと思うのはどうしてなんだろう。いまだに答えは出ないけど、おれはおれじゃなくならない程度で常に、君のことを考えてる。

冷蔵庫からミネラルウォーターを取り出して、一口くちに含む。
五秒くらい目を閉じてみたけれど、早まった動悸はおさまらない。
仕方ないからポケットに入れておいたスマートフォンを取り出す。重い指先で、スワイプしていく。


『……臨也、どした?』

「寝てた?」

『うん、寝てた。でも、珍しいから起きた』

『臨也からこんな時間に電話なんて、ふしぎ』まわらない呂律で、よく知った声がもごもごと言葉をつむいでいる。電話口で、一度機械によってデータ化された彼女の声が、再構成されておれの耳にとどいている。本当に不思議だよね。声が聞こえる距離にいるわけがないのにさ。きみが今もおれの知ってるきみである、保証なんてどこにもないのにさ。


『どうしたの』

まだ夢の中にいるみたいなやわらかい声を聴いて、どうしようもなく冷えた胸のなかがあたたかくなる。ぬるま湯をそそがれるように、全身が弛緩していく。情けなくて、恥ずかしくて、どうか彼女が目を覚ました時わすれてくれていたらいいのに、なんてどうしようもないことを祈る。

「…どうもしないよ」

『なにそれ、どういうこと』

「そういう日もあるだろ」

『臨也に限って、ない、と思ってたけど…』

しだいに彼女の声がはきはきしてくるにつれて、おれの気恥ずかしさばかり、右肩上がりに上がっていく。ああ最悪だ。そんなふうに思っても、電話を切ったりはしない。

『そういう日も、あるんだね』

「はは、驚いた?悪かったね」

『ううん、ぜんぜん。臨也、お酒飲んでる?』

「飲んでないけど」

『そうなんだ、そっか、じゃあさ』

『今からそっち行こうか?』そんなの必要ない、いらないよって言わなくちゃ。今すぐに。なにいってるのって少しだけばかにしたみたく笑いながら、否定しなくちゃ。頭がぐるぐる回るけど、沈み切った心はまだ浮上してきていなくて、おれのくちびるを動かしてはくれない。


『うん、やっぱり今からいく。ちゃんとタクシー呼ぶから』

『いいでしょ?』彼女のほうはにこにこと笑ったようにご機嫌で、拍子抜けしてしまう。反対におれは黙ったままで、うんともすんとも言えなくて、弱ってしまう。飲んでいたミネラルウォーターにもう一度くちを付けて、沈黙をいっしょに飲み込む。

祈りも鬱も人間らしい感覚だ。どれも正しく、等しく、おれにだって存在する。だけど、それを他人にあずけたりするのは、あまりにもリスキーじゃないかな。あさはかで、愚かな行為だ。ずっとずっとそう思ってた。だけど、それでも、人間である限りおれたちは、一度求めたら結局は、底の底まで求めてしまうんだろう。こういうときは、自分の貪欲なところが、大好きだけど大嫌いだ。


「ねえ。下まで迎えに行かなくても、そのまま部屋に入ってこれる?」

『うん、入れる』

「…じゃあ、くれぐれも、用心して」

それでも、どうしても、抵抗なんてきっと空しくて、おれたちは愛を知ったとたんにきっと、内在する欲望にせっつかれて、与えるより多く奪ってしまうんだろう。

きみと約束したつもりはない。「死にそうなときや死にたくなったときは、絶対にわたしに連絡してね」いつかきみがおれに言った、そんなまやかしみたいな台詞に、イエスと答えたはずがない。
だけど、それなのに、交わしたはずのない約束に縛られている。何度無視しようとしても後ろめたさと激しい後悔で、どうしても無碍にできないんだ。そういう日がほんの時たまに、あるんだ。おれにも。


冷えきった部屋を少しずつあたためながら、
消えていたルームランプに火を灯しながら、
いつも通りの素知らぬ顔をつくりながら、
おれは、
おれらしくなく大人しく、
きみが鳴らすチャイムを待つだけだ。



僕らは際限なく命を求めてしまうのだけどさ
(21.06.29)



×
「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -