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(※設定は13巻.14巻あたり、フィリピンルートの未来の佐野万次郎)



「マイキー」

つい声に出すとあの頃がほろほろと浮かび上がって、いまでもすぐ近くに、彼らが生きている気がする。東急の裏、原宿につづくキャットストリートの入り口、松濤の住宅街へ向かう通り、今はもうない宮下公園に。あたりまえみたいにノーヘルで単車を乗り回してた彼らの、排気音。目をゆっくり細めて、こちらを見てたマイキー。大好きなバブの隣に立って、ほんのすこしだけほほえんで、なんだかんだあったけどさ、結局毎日たのしかったよね。いま思えば、あの頃がいちばん平和だったよね。地獄と地獄の間で、わたしたちは一生懸命、息をしていた。

マイキーが、今、どこにいるかなんて、誰もわからないのだそうだ。



「おまえは今すぐここを抜けろ」

あの日。ついにドラケンにそう言われたとき、わたしは焦って、すがるように彼の後ろに立っていたマイキーを見た。
いま離れちゃいけない。みんなを残して、去ることなんかできるわけない。そう思っていたのに、マイキーはやけに優しい顔をして、にこって笑った。瞳はずいぶん前からずっと空っぽだったから、久しぶりに見た笑顔だった。
ねえマイキー、なんでそんな顔するの。それがあなたの意志なの?わたしに消えてほしいってことなの?走馬灯のように、くるくると、学生時代のすべてがあふれてきて、わたしたちはもう子どもじゃないんだ、って、もうとっくにわかっていたはずのことが、苦しいくらいに胸に響いた。
わたしたちは地獄を知った。このなかで、まだ染まっていないのはきっとわたしだけ。わたしだけ、力がない。わたしだけ、なにも知らない。だから中途半端だった。いつかこうして突き放されるとわかってた、どっかでわかってた。でも、でも、必死で縋り続けてきた。
心配だからって、大好きだからって、離れられないからって、そんな子どもみたいな思いだけじゃ一緒にいれない。

「ねえ、マイキー」

藁をも掴む思いで、震える声でそう呼んだら「うん」って頷いて、何も知らないみたいな顔で笑ってさ。それだけ。ずるいよ。

「…マイキーも、おれも、それを望んでる」

「これから先の暗い道に、おまえまで連れてはいけない」わかるな?とドラケンは言外に理解を求めて、こちらをじっと見つめる。マイキーのほうから、わたしの視線を逸らそうとしてる。それに気づいてしまって、泣きながらぎゅっと唇を噛みしめて、わたしはその場から逃げた。走って逃げた。

それからずっと、マイキーにもドラケンにも、会ってない。
情けなかった。好きな人ひとり守れない、わたしは世界一無力だった。強大な闇の前では、なにもできやしなかった。落ちていく彼らを追いかける脚力が、わたしにはなかった。


奥渋から宮下公園の方向に歩く。帰る場所をうしなった人のように、ぐるぐると。わたしは未だにこうして、渋谷の街をあてもなく歩き回ってしまう。あの日の彼らの面影を探して。帰ってきてもいいとは一度も言ってくれなかった仲間の姿を、大好きな人の姿を、探して。連絡をしたり、会いに行ったりはできなくても、せめて。あの日の思い出を踏みながら、姿を探すことくらいはゆるしてほしい。そうしないと、わたしの心は、今にもこわれてしまいそうなのだから。


ハンズのあたりを通り過ぎる。夜風で身体が冷えてきたので自販機であたたかいミルクティーを買った。うるさいクラブやライブハウス、怪しげなタトゥーショップ。大通りからすこし外れるとランプの灯る暗がりの店が増える。わたしは適当な路端のブロックに腰を下ろして、プルタブを起こす。
缶を傾けると、こくりと喉に甘さがひろがる。
マイキーを思い出すとき、わたしはミルクティーを飲む。香り高くてやさしくて、くどいくらいにあまくて、そのわりに後味があっけなくて、しらないうちに消えてしまう。マイキーはミルクティーに似てる。わたしはいつか、そんなことばかり考えていた。夢見がちだったティーンの淡くて激しい恋心は、ばかみたいで可愛くて、今思い返しても愛おしい。

視線をまっすぐ前に戻した時、車道をはさんだ向こう側の道にいる人と目が合った。
赤いランプのひときわ明るい店から出てきた、男の人。黒い髪は顔を隠すように、まっすぐ切りそろえられている。白い肌が、ミルクのように光って、きれいなきれいな、顔の人。

目の前の通りを大きなトラックが通り過ぎる。
その人の姿を隠してしまう。

次の瞬間、対岸にいたと思っていたその人が、目の前に現れる。


「…マイキー?」

脳みそより速く心が動いて、しらないうちに声が出ていた。嫌って程くちびるになじんだ言葉の形が、さらに鼓動のスピードをはやめた。
マイキーはあのころとおんなじ目で、おんなじくらいの身長で、おんなじくちびるの形をしてた。あのころよりずっと痩せた肩で息をして、うすくなった瞼でまばたきをして、短くなった黒髪が風になびいていた。

「違う」

「違う?」

「そう、違うよ」

どう考えてもマイキーの声だった。だけど、そんな苦しそうな顔、わたし、初めて見た。ぎゅっと眉間にしわを寄せて、自動音声みたいに感情のないトーンで話す。
目を合わせようと顔を覗き込むと手首をいきなりつかまれて、ほんの10メートルくらい離れた建物の影に押しこられる。気づいた時にはぎゅっと身体を抱きしめられていて、「静かにして」とささやかれる。

「マイキー?マイキーなんでしょ?ねえ」

「ううん、違う。人違いだよ。……でも、なまえは変わらないね」

「安心する。あのころと変わらないものをみると、おれはまだ、やっぱり安心するんだ」深呼吸しながら、マイキーは自分に言い聞かせるみたいに唱えた。わたしは思わずなにも言えなくなって、じっと、抱き締められたまま黙っていた。このひとは確実にマイキーなのに、ぜんぜんマイキーじゃないみたいだ。身体はあのころよりさらに引き締まって、細くて、冷たくて。匂いも、あのあまったるい丸い匂いは全部消えて、尖ったコロンと煙草の香りがする。泣きそうになってしまって、首すじに顔を埋めると、彼はくすぐったそうにすこしだけ笑った。

しばらくそのままでいたら、マイキーは何事もなかったみたいにわたしから離れる。余韻もなく。
何かから隠れるみたいにもう一度二人の身体をビルの影に身を隠す。

「あの日、おれはおまえに直接言えなかった。だから今、もう一度言うよ」

間近でみるダークブラウンの瞳孔は、狂ったように開ききっていた。きゅーっと黒目が縮んで、うすいまぶたが瞳を隠す。

「…消えてくれ。死にたくねーなら、今日以降、二度とおれの前に現れるな」

まなざしから温度が消えて、睨みつけられる。声をつぶして凄むやり方は、あのころよりずっとおそろしくて、思わず全身の鳥肌が立つ。身体が震える。息がつまる。
するとマイキーは怯えるわたしを安心させるように頬を撫でた。緊張と緩和の差でこころがぼろぼろになりそうだ。「ねえ、なまえ。昔、言ってたよね。”つまんない”人生は嫌だって。そのときはおれも、そんなの当然だって思ってた」

「でもさ、いいよ。死ぬほどつまんない毎日だって全然いいんだ。明るい場所にいてくれるなら、」

「…おまえは死ぬな」耳元で鼓膜に直接触れられるようにそう言われて、すぐにどん、と身体を押される。


「おれはおまえのことをしらない、だからおまえも、おれのことはしらない」

「さよならだ、なまえ」そう言い捨ててマイキーは、佐野万次郎は渋谷の夜の中に消えていった。あんなに会いたかったひとは、記憶よりもずっとずっとかなしい顔をしていた。闇の中にいたってきらきら輝いてた金髪は、濡れたように黒く染まって、彼を夜に隠してしまうのにはあまりにぴったりだった。あなたはいつも輝いていた。つやつやとゆれるような黒い光じゃなくて、白くてミルクティーみたいなあなたは、わたしの光だった。わたしは祈った。祈ることしかできなかった。わたしの神様はあなただったから、もう、他に祈るべき対象がなくて、膝をついて泣きながら天に祈った。

手に持っていたはずのミルクティーの缶は、とっくのとうに地面の上に転がって、真っ黒なアスファルトに液体が流れ出していた。
こぼれゆく白いそれを、わたしはなすすべもなくじっと見ていた。明日になって雨が降って、きれいさっぱり流されて、溶け出す白を思ってわたしは、嗚咽をあげて泣いた。泣いたって泣いたって、戻ってこない。こぼれた光はもう戻らない。黒く染まって、流されていく。

わたしは、やっぱり、いつだって無力だ。



甘い記憶から順番に消してよ
(21.05.25)



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