book | ナノ


いますぐに。

寝てる左馬刻を起こして、散歩に行こうって、誘おう。いますぐに。普段だったら絶対にしないけど、あまりにも寝苦しそうだから。見ている夢にも覚めたあとの現実にもうなされて、どこへもいけないって顔をしてるから。
進まなくたっていい、戻らなくたっていい。そんなふうに言ったら、ストイックなあなたは怒るかしら?だけど、それでも、わたしはあなたがどこへも行かずに済むように、一瞬だけでいい、ここから連れ出してあげたいと願ってしまう。


「左馬刻」

肩を掴んでも起きない左馬刻の、頬や瞼をゆっくりと撫でた。
わたしの肌よりも少しだけ乾いていて、硬質で、すべらかなそれに指先を滑らしていると、淡い色のまつげが、ゆっくり震える。

「ン」

「…おきた?」

返事は、まだない。
左馬刻は気怠げにまぶたを持ち上げると、ほんの一瞬、あまりにも切なそうに眦を細めて、それから小さくため息をつく。一度だけ目を伏せると、仕切り直すみたいにいつものやり方で、忌々しげに睨んでくる。
普段だったらこのまま「ねみぃ、なに起こしてやがんだ」なんてとりあえず凄んでくるはずなのに、今日はその予兆がない。

「なんだよ、なまえ」

「起きてたのか」ひどくやさしい声だった。
ぜんぜん左馬刻らしくなくて、でもほんとはとてつもなく”左馬刻らしい”声。ああ、よかった、目覚めてくれて。赤色の目に、わたしの姿がうつっているのが見えて、心の底から安堵する。だけどその刹那、すぐにその赤は隠れてしまう。左馬刻の手のひらが覆い隠したのだ。


「ねぇ左馬刻、散歩にいこう、今すぐに」

わたしは焦ってしまってつい、せっつくように誘った。左馬刻は「はあ?」と気の抜けたように漏らすとすぐに、乾いた声で笑ってくれた。やっぱり、こういう時は怒ったりしないんだよね。いつもならわがまま言いすぎるわたしのこと、叱るくせにさ。こういう時だけは、わざとこちらに主導権を握らせるの。

ほら、その目。
ずるいよ。
持ち上がった手首の影から見えるのは、まるで捨て去られた子どものような、まるで那由多に広がる宇宙の真ん中にひとつだけ、取り残されたスプートニクのような、そういう瞳だった。とにかく思い切り儚くて、触ったら壊れてしまいそうで、その癖とても遠くに遠くにある、そんな瞳。
わたしはたまらなくなって、左馬刻の手首を引っ張って、抱きしめるように上体を起こさせる。はやく、はやくおきて。ここから出かけよう。二人で。いますぐに。

左馬刻はまた少しだけ笑いながら、珍しくわたしのされるがままになっている。身体の力を抜いて、諦めたようにゆるりと上体を起こすと「ばかだな、てめーは」と思ってもない悪態をつくのだ。なにをいってるの、ばかはあなたよ。世界中にたった一人みたいな、そんな目で見てきて。ひどいと思わない?わたしがここにいるっていうのに、そんな悲しい目で見てくるなんて。


・・・


「日中よりもあったかいね」

今夜はもっと冷え込むかと思ってた。
不思議だな、ついこの前まで冬だったのに。三寒四温とは言うけれど、春の気温は不安定。夏の暑さを感じさせたかと思うと、次の日には冬の風が吹き込んでくるんだもの。今日の昼間は、思わずしまったコートを引っ張り出したくらい寒かったから、夜はもっと冷えるだろうと思ったのに、ずいぶんと暖かかった。

「春っつーのはそういうモンだろ」

左馬刻はやけに訳知り顔で、なんてことないふうに言ってくる。もしかしてテキトーに返事してるのかな、と思ったけどそんな感じでもなかった。
とんとん、とタバコの先っぽを軽くたたいてから、左馬刻はいつものライターに火をつけた。くちびるの間にフィルターを挟むとそのまま、揺れる炎を顔に近づけて、ゆっくり、静かに息を吸う。ちりちり。控えめに先端が赤く燃えて、音がする。

「昼より夜の方があったかいなんて不思議じゃない?」

わかってもらえないのがなんだか悔しくて、わたしはちょっと食い下がる。
すると左馬刻は呆れたように、だけど表情はほとんど崩さないまま、タバコの煙を吐いた。白くひろがる煙が、左馬刻の身体のまわりをふわふわと取り囲む。

「…お前、去年もまったくおんなじこと言ってたぞ」

「べつに不思議なことじゃねぇって、さんざん教えたろ」無表情のままだった左馬刻が、ほんのすこしだけ口元を緩める。きっと去年のことを思い出して笑ってるんだ。
そうだった。
言われてようやっと思い出した。
春の気温が三寒四温で不安定な理由も、春の嵐で吹き込む風がすごく強いってことも、春雨が柔らかくてしびれるほど冷たいってことも、ぜんぶぜんぶ、教えてくれたのは左馬刻だった。
よく着てるアロハはいっつも夏みたいだし、怖い顔をしてることだって多いから四季なんてまったく気にしてないように見えるけれど、その実、左馬刻は季節の移り変わりが誰より大好きなんだと思う。このまえなんてふたりでぼーっと海を見てたらぽつりと「港を歩くにはちょうどいい季節になってきやがったな」とかつぶやいてた。
左馬刻はどうやら、空や湿度や風の匂いで季節を感じているらしい。それって、もしかしなくても、かなりロマンチストだ。左馬刻は柄にもなく、ヤクザらしくなく、超ロマンチスト。(これ、左馬刻に直接いったら、めちゃくちゃ嫌がるだろうな。)
そしてわたしは、左馬刻のそういうところがとてもとても好きなのだ。人一倍優しくて、実は寂しさにめっぽう弱くって、ものすっっごいロマンチストなところ。一見ぜんぜん左馬刻らしくない、でもほんとはどこより彼らしい、左馬刻のいいところ。わたしは、彼のそういうところが、何よりも誰よりも大好きなのだ。
だけど当の左馬刻は、この世界で強くしぶとく生き抜くために、自分らしさをいちいち否定しながら生きてるんだと思う。どれもこれも大事じゃないふりして、平気なふりして、なんてことないって顔をして、毎日なにかと闘っている。こんなゆがんだ世界では、そうでもしなきゃやっていけないからだ。わかってる。わかってる。だからこそ、わたしは左馬刻が捨てようとしている左馬刻らしさを、いいところを、ぜんぶ漏らさず残さず抱えて、愛して、大事に大事に持っておこうと思うのだ。

なんて、そんなことをひとりでぐるぐる考えていたら心がギュッとなる。わたしってほんとうに左馬刻のことが好きなんだなあ、と実感したとたん、すごく苦しくなってしまった。
心細くて、たえられなくて、隣同士で歩いている愛しい男の、ぶつかりあう手の甲に、指を滑らせる。そのままゆるく指を絡めてみたら、案外すんなり受け入れてくれた。それどころか指と指をしっかりとからめて、愛おしげに、親指で手の甲を撫でてくれる。あまりに優しくて自然なそのしぐさに思わずハッとしてしまって、横目でチラリと左馬刻の様子を伺うと、左馬刻はやっぱりポーカーフェイスのままで、タバコをぷかぷかふかしているのだった。ああ、最高に左馬刻らしい顔をしてる。指先は、ぜんぜん左馬刻らしくないことをしてるっていうのに、もう元通りの表情だ。この人は、なんてずるいんだろうな。

ハマの夜は、潮と、火薬と、機械油の匂い。
海風がべたつくし、わたしたちを包む風は生暖かくて、つないだ手は燃えそうなほどに熱かった。向こう側で船の汽笛が鳴って、ざぶんと波の音がした。ざぶん、ざぶん。飲み込まれてしまうような気がして、手の力をぐっと入れなおす。


「左馬刻、もうすぐ夏がくるね」

わたしは波音のあいまを縫ってつぶやいた。
左馬刻は何にも言わないまま、立ち止まる。手を引かれているわたしもそのまま立ち止まる。港のサーチライトが眩しくって、逆光で、表情が見えない。
影になったまま、左馬刻は咥えていたタバコを繋いでいない方の指に挟むと、こちらに軽く屈みこんで、気まぐれみたいにキスをしてくれた。本当にいっしゅんだけ、気まぐれみたいに優しく。


「…帰ぇるぞ」

さっきよりもずっと乱暴に手を引かれる。
遠くに、寂しさを見つけてしまった。夜の闇の中に、季節のながれの中に、わたしたちは愛しさと寂しさを、おなじくらい感じてしまった。
左馬刻の手のひらはとても熱い。

きっと帰ったらすぐに、お互いなにもしゃべらないまま、流れるように速やかに、身体を重ねるんだと思う。この人は、いまとても不安定。だからいつもよりずっと早急な、まるで呑み込んでしまうようなセックスをするんだと思う。
左馬刻になら飲み込まれても怖くない。なにも怖くないよ。暗くて、眩しくて、暖かくて、冷たくて、なにも確かじゃない夜の中でも、どうしたってそれだけは確かだった。


「左馬刻、わたし、しあわせだよ」

真っすぐにそう伝えると、左馬刻はぎゅっと眉間にしわをよせて、それから何かを堪えるように目を伏せた。

「そうか」

今日の左馬刻は無抵抗だ。
不安定で、脆くて、赤子のようにやわらかい。
わたしは、そんな左馬刻に何ができるんだろう。
…きっと何もできない。何もしてあげられない。左馬刻が望んでやまないものと似たものすらも、与えることは一生できない。
だからせめて左馬刻が言えない分もあわせて、わたしがたくさん言ってあげる。どんな些細な幸せでも、暖かさでも、わたしがぜんぶ摘んで見せてあげる。それは、左馬刻が本当に欲しいものではないかもしれない。けど。だけど、遠くからやってくる寂しさを少しでも紛らわせるように。ほらこうやって、いくらでも見せてあげる。


あなたは、いつだって生死をくぐり抜けては生き延びて、血と金と因縁と乱暴とスリルの中を生きているね。この世界では、本当に欲しいものは指の隙間をすり抜けて、なかなか手に入らないというのに、それでも力強く立っている。ストイックでアウトローな人。あなたにだって、ほんのたまに、穏やかな時間があってもいいでしょう。ねえ、そう願う女がひとりくらい。拍子抜けするくらい和やかで、あたたかくて、優しい夜があっていいのだと、そう思ってしまう女がひとりくらい、存在すること、どうか許して欲しいのだ。

心の叫びは音にならない。
形にだってなりやしない。


すぐそばの幸福と、相反して存在する、
とおくを見つめたままのあなたの優しい瞳。
最後まではきっと救ってあげられない、
無力で無常な、投げ出されるべき愛の話。


(21.05.03)



×
「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -