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彼女はなんてことない同級生だった。

中学に上がったばかりの女の子たちは、まるで紙石鹸みたいだと思う。
みんなみんな薄っぺらで、なんだかちゃちでおもちゃみたいだ。だけど、彼女たちはみんな、透き通るように色づき始めていて、ほんのすこしだけいい匂いがする。
そういう浮き出る特徴の端々に、俺たち”男”とは違う生き物なんだってことを実感させられる。その違いは、この時代のなかでは異様なほどに大きな違いで、俺にとっても例外じゃなかった。

それでも、彼女はなんてことない同級生だった。
俺にとっては数少ない、気兼ねなく言葉を交わすことのできるクラスメイトだったのだ。とはいえ彼女も、紙石鹸みたいな女の子のひとりだった。まるでシャボン玉だって作れそうな、年頃の女の子。
生じ始めた俺たちの違いは、性別の違いは、ゆっくりと世界を引き裂いていくのだろうけど、そんなこと、まだ具体的な問題なんかじゃなかった。少なくとも俺はそう思っていた。


「三郎くんって、ラップ、するんだ」


彼女は他愛もない話の合間に、ごく単純な、それでいてとんでもなく不思議そうな顔をして、そう訊いてきた。


「そうだけど…もしかしておまえ、一兄のことも知らないのか?」

「ううん、もちろん一郎さんのことは知ってるよ。一郎さんが三郎くんのお兄さんだってことも」

「じゃあなんだよ、今更だろ」

「そんなことないよ。だって、一郎さんが有名なMCだからって、三郎くんもラップするとは限らないでしょ?」

「だから、しらなかったの」まんまるな目でこちらを見透かすように見つめて、そう問うてくる。
彼女のこういう、自分の存在は純真であると信じ切っているところが少しだけ苦手だ。まるで穢れをしらないことを、清潔であることを、当然だと自負してるみたいに。俺はなんだか胸の奥がちりちりと苛立って、のどをごくりと鳴らした。


「どうして」

なるべく冷たい声で、問い詰めるように訊く。
彼女はほんの少しだけひるんで、それから、もじもじと目線をそらす。「なんていうか、その、」声はやや震えているが、芯がある。俺は、彼女のこういう、弱腰なくせにやけに強気なところに、すごく、

「三郎くんは、冷静で、クールな感じっていうか…あんまり怖くないし、大きな声で牽制したりしなそうっていうか…」

とてつもなく、腹が立つ。


「そうか。おまえは、俺が一兄みたいにはなれないって言いたいんだな」

「違うよ!でもさ、やっぱりその言い方は変だよ。一郎さんは一郎さん、三郎くんは三郎くんでしょう?」

彼女は顔をあげてそう言った。思わず息をのんだ。


「…三郎くんは、三郎くんだよ。」

「わたし、ほかでもなく、三郎くんのことだから、直接聞いたんだよ。」どうして、なんでそんなことを言うんだろう。
ずかずかと心に踏み込むような発言を、まっとうですって顔でできるんだろう。すくなくとも、男友達はこんなこと言わない。言ってくるはずがない。まわりの大人たちだって言わないだろう。なのにこいつは。この女は。
…女の子ってみんなこうなのかな。俺には女の子のことはよくわからない。母親は、ずっとはるか昔に失くしているし、家族は自分以外に男兄弟が二人だけ。一つ上の兄と違ってクラスメイトとの会話だって多い方じゃないし、そりゃあ、女子のことなんかよくわからないさ。だけど、こいつは、どうしてこんなにまっすぐな目ができるんだろう。弱弱しい声で、にわかに肩をふるわせて、それなのに、あまりにしっかりとした眼差しで。

湧き出る疑問が霧散すると、時間差で、激しい怒りがやってくる。頭の中がぐるぐる沸騰するように熱くなって、居てもたってもいられなくなった。その不躾な言葉たちに、踏みにじられた気がしたのだ。
男としての俺のこれまでの人生を、価値観を、目標を見据える姿勢そのものを、俺の、生きがいすべてを。

プライドや矜持がぐちゃぐちゃになって、すべてを失って、倒れてしまいそうだった。俺は、たしかに怒っていた。


「ふざけるなよ。」

だから、叫んだつもりだった。
憤りのあまり、怒りのあまりでてしまった大声で、彼女を威圧したつもりだったのだ。そしてひどく驚かせて、反省させて、もう俺に近づくことがないように、遠ざけるつもりだった。牽制するつもりだった。ここからいち早く、一秒でも早く、消えてほしかった。怒りとショックで全身が思う通りに動かなくなってしまった自分の代わりに、ここから逃げ去ってほしかった。

それなのに、

「おまえは、なにも知らないくせに」

ぽろぽろとこぼれる自分の声に驚愕した。声帯がきゅっと締まってしまって、叫んだはずの声はしゅんとしぼんで、あまりにもかすれた、情けない声しか出なかったのだ。ひゅうひゅうと漏れる息は、まるで声を失ったセイレーンみたいだ。おもわず嘲笑がこみ上げてくる。
なんでだろう、どうしてだろう。そう思って口元を手のひらで覆うと、指の間に水滴がひやりとぶつかった。頬を指でなでる。あろうことか俺は泣いていた。ああ。一兄に、男は簡単に泣いちゃいけないって、そう言われていたのに。その言いつけを何年も必死で守ってきたっていうのに。自分でも知らないうちに涙がこぼれていた。

彼女は、わっと驚いたかと思うと飛んできて、俺の頭に優しく触れた。
すぐにでも立ち去ってほしかったのに、反対にこいつは、俺のそばにやってきたのだ。


「ごめん、三郎くん、悲しませるつもりはなかったの」

ごめん、ごめん、と彼女は呟きながら、でも確かに正しい姿勢でおれの背中や頭を撫で続けていた。俺は彼女に対してものすごく怒っていたはずなのに、触れている手のひらの温度や柔らかさを不思議と不快には思わなくて、涙がどんどんあふれてきた。


「わたし、三郎くんのことが好きだよ」

「一郎さんのことはよく知らないけど、三郎くんのことなら、誰よりも、いつまでも好き、だと思うの」ばかばかしい、そう思って冷えていく脳みそとはうらはらに目の奥がずっと熱くて熱くてしょうがなかった。  


「大好きなんだよ、大好きなの」

一方的にぶつけられる自分勝手な愛の言葉に、目の前がくらくらした。俺のことを好き?俺だけのことを?ばかばかしい、ありえない。俺を撫でる彼女の手のひらがとても熱い。あたたかい。俺はとめどなく涙をながしつづけて、彼女は俺を抱きめた。煮えたくるマグマのような、どろどろした感情ごと。すべてをひたすら受け止めるように俺を抱き締め続けた。


生じ始めた俺たちの違いは、性別の違いは、ゆっくりと世界を引き裂いていくのだろうけど、そんなこと、まだ具体的な問題なんかじゃなかった。そう思っていた。だけど、違いはたしかに生じていたんだ。今ここに、こうして生じているんだ。俺は女の子のことはよくわからない、よくわからないけど、彼女を前にこうして情けなくすべてを投げ出してしまったのは事実で。俺たちの違いが、性別の違いが引き裂いたのは”世界”なんかじゃなかったのだ。俺は救われてしまっている、たしかに解きほぐされてしまっている。まだ、紙石鹸みたいで未完成な女の子の、”女”の部分に、たしかに愛されてしまっているのだ。
そう感じた途端、頭が真っ白にやるせなくなって、すべてがダメになってしまって、俺は両手で強く彼女の背を掻き抱いた。息をのみこむ音がした。「うるさい、だまれ」おれはそう言って、泣きながら、彼女の耳にキスをした。その瞬間…自分の唇が彼女の柔い肌に触れたその瞬間、自分が男なのだと感じたその瞬間、俺は、今まで一度もあじわったことのない充足感を全身に感じた。


光より速く、煮えるより熱く。
俺たちはこうしてきっと、知らないうちに簡単に、大人になってしまうのだ。


(21.04.16)



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