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土砂降りの次の日の、朝が好き。

ちいさく鳴く鳥の声で、どうやら朝が来たのだということがわかる。
うまく眠れないのでむくりとベッドから這い出した。雨の日は気圧が低くて、とてもだるい。かなわない恋に思いを巡らしたりして、暗澹たる気持ちで一日中、布団の中でうとうとしていたから、夜になっても一向に睡魔がこなかったのだ。
まぶたをこすり、昨日いれておいたハーブティーを飲む。だしっぱなしのまま、椅子にかけていた薄手のコートを羽織る。
すこしだけ、昨日より軽やかな気持ちで外へ出る。

土砂降りの次の日の、朝が好き。

今までのあらゆることが全部流されて、まっさらの新しい日々が始まるような気がするから。土砂降りの次の日は、きれいに晴れる。水溜りにほのあおい日光が反射して、むこうかわから紫色の空が色づいていく。
わたしの頭を悩ませていたさまざまな出来事が、いっしょにとろけていく気がする。

少し歩くとそこに着く。
駆け足で屋上にのぼる。

はやく、なによりはやく、きれいな空気で肺をいっぱいにしたかった。
自分の心の中をぜんぶ洗い上げてしまいたかった。
がちゃりと重たい鉄のドアを開けると、期待通り、空いっぱいの薄紫、桃色の雲、白い月。なのにわたしのまなざしは、その手前でぴたりと止まってしまう。ゆらゆらと揺れる白いシャツ。さらさら流れる、パープルの毛先。


「やあ」

わたしが声を出すより先に、彼はこちらを振り向いた。逆光で、表情が見えない。黒く塗り潰されたように顔が見えない。わたしの胸はなぜか不思議にどぎまぎする。

「ムル?」

「うん」

思わず駆け寄る。
もう朝の空気など、どうでもよかった。まずは顔が見たかった。彼の顔が。
横に並ぶと、ゆっくりと見えるようになる。いつもどおり。細められたエメラルドブルーの目も、すっとうつくしい鼻も、きゅっと閉じた薄い唇も、いつもどおりのムルだった。

「どうしたの?」

「不思議な顔をしてるね」ムルはおかしそうにわたしの頬を撫でた。そしてすぐに、目線を空へと戻してしまう。
不思議な顔?それをいうならあなたの方よ、と出かかった言葉をグッと飲み込む。こわくてこわくて、飲み込む。

「厄災をね、見送ってたんだ」

ああやっぱり、この人にはあの月しか見えていない。
だからわたしには顔が見えない。見せてくれない。本当のムルの、優しい顔、苦しい顔、困った顔、ぜんぶぜんぶおあずけだ。わたしなんかには、決して見せない。

「いってしまうね、おれの愛しいひとが」

そうつぶやく横顔は、この世のものとは思えないほど美しくて、切なくて、苦しそうだった。ほらね、月に向ける顔は、こんなに豊かで正しいのに、わたしには見えないの。ゆらゆらとシャツが揺れて、わたしの手の甲にあたる。こんなに近くにいるのに、こんなに、誰より近くにいるのに、とどかない。
わたしは何も言えないままで、黙り込んでいる。

夢を見るのは、とてつもなく都合がいい。
ムルはいつも理詰めで話すから、厳格なリアリストに見えるけれど、本当はだれよりもロマンチストだ。だって、今ここにいないものを愛して、求めて、まぼろしをおいかけ続けるの。ムルは、彼はきっと”愛すること”自体がとても好きなのだ。裏切られない、たったひとつのじぶんの愛をもとめつづけているのだ。
昨日までのさまざまな悩み事は、ゆっくり消えていったのだとそう思っていたのに、心のなかに薄暗い感情がくるくると渦巻いた。この人のせい、ぜんぶぜんぶ、このひとのせい。

「どうして消えてしまうんだろう、こんなにも愛しているのに」

いけしゃあしゃあとのたまうその口を、無理やりふさいでやりたくなった。好きで愛しているくせに。好きで切なくなっているくせに。ムルに対するあこがれや愛があふれかえって、わたしに怒りや憎しみをもたらす。可愛さ余って憎さ百倍とはよくいうけれど、あれは本当のことらしい。ふつふつと湧き上がる憤怒は、自分でも呆れてくるほどだ。


「いきたいよ、あそこへ」

「もっと近くで会いたいんだ」そういって天手を伸ばすムルの声に嘘はなくて、今にも消えていってしまいそうで、わたしはやっぱりこわくて、こわくて。怒りと恐怖で頭の中がごちゃごちゃになって、あ、と思った時には身体がうごいていた。

ぎゅっと、縋りつくように抱き着くと、その腰は思ったよりずっと細かった。いかないで、いかないで、遠くへ行かないで。愛さなくったっていいから、どうかここにいて。わたしはムルをとられたくなかった。心だけじゃなく、身体までもとられるなんてごめんだった。心がもらえないのなら、どうか、この身体くらいはそばにいさせて。ずっとずっとそんなことを考えていた。雨の中で、ぐるぐるぐるぐる考えていたから、もう、限界だった。

「ちょっと、きみ、」

ムルが焦ったようすでわたしの腕をつかむ。

「いかないで」

「どうしたの」

「いかないでよ、ムル」

顔はどうしても見られたくなかった。泣いているから。ムルのシャツに額をつけて、動かないよう力を入れた。ムルはどうせわたしの感情なんか気にしてない。あなたは、わたしの想いに気づいているのかもしれないけど、だけど、ぜんぜん気にしてないの。知ってるよ、知ってるんだから。あなたがわたしを、ほとんど夢みたいなものだと思ってるって。あの月と一緒なんでしょう?あなたは他人をすぐに客観視して、幻想のように扱うの。知ってるよ、知ってるんだから。「ばかにしないで。」勝手に口が動いて、声がでる。まるで水があふれてとまらなくなるみたいに。

「わたしは、まぼろしなんかじゃない」

誰よりなにより強い口調でそう言った。
思い切って顔を上げた。バランスが崩れて、太陽の位置が変わって、ムルの顔がよく見えた。エメラルドブルーの目は驚いたように大きく見開かれていて、薄い唇はうっすらとあいていて、ぜんぜんいつも通りじゃない。ああ、やっと見れた!いつもどおりじゃない、わたしの大好きな大好きなムル。思わずくすりと笑ってしまったら、ムルはもっと驚いたように、困ったように、きれいな眉間にしわを寄せて、それから顔を真っ赤にした。ああ、やっと見れた。あなたの顔をたくさん見れた。

土砂降りで、すべて洗い流されたと思っていたのに、わたしの恋心は流されてなんてくれない。でもいいの、それでいいの。だってわたしはムルのことが好きだから。誰に何と言われようと、ムルがどんな思想を持っていようと、わたしはムルが好きなのだ。
それがもう、いまのわたしの、世界のすべてなのだから。


(21.03.14)



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