約束は、しなかった。
たしかにそう思っていた。
最後に会ったのは、寒い寒い夜だった。
エメラルドの湖面のような瞳をすっと細くして、あなたは何か言った。
約束は、しなかった。
たしかにそのはずだった。
だけど今は何もわからない。
あなたが何を言ったのか、あなたが一体誰なのか。約束って、そもそもなんのことだったのか。
・・・
たくさんのことをわすれている。
大事ななにかが脳内で、ぷつんとブラックアウトしている感覚。
そんな感覚の中で、わたしは今日ももくもくと仕事をする。
コーヒーを淹れるのは好き。ドリップしている間は無心になれる。 重要なことを忘れている、という違和感や自分に対する不信感さえも忘れられる。だからとても心地がいい。
もうもうと立ち上る湯気が、わたしの身体を包むころ、夢心地になる。とつとつと落ちるドロップは、わたしの記憶の欠落した部分のように、色濃く、質量をましていく。
やっぱり、わたしは忘れている。
何かを。そして何もかもを。
「すみませんが。」
「テイクアウトで、ブラックコーヒー2つと、カフェオレ2つ…」そう続く声が背中越しに聞こえて、振り返る。
「あ、はい、いらっしゃいませ!」
そこには長髪のあでやかな長身の男性が立っていた。
彼は、わたしの顔をじっと見ると「おや?」と不思議そうな声を出す。
「あなたは」
彼がそのまま言葉を続けようと口をひらくと「シャイロック!」元気な声が店の入り口から聞こえる。
「俺、やっぱりコーヒーじゃなくてブラックティーがいい!」
明るい声の主は飛ぶようにこちらへ寄ってきて、レジの向こう、長身の彼に寄り添った。「…ああ、ムル」
「ここのお会計はお願いしてもいいですか?財布ならどうぞ。私は少し用事を思い出してしまって。」
ムル、と呼ばれたその人は長髪の彼から財布を受け取ると「うん、いいよ!」と笑顔で返事をしていた。長髪の彼はその笑顔をみて安心したように微笑むと、店外に出てしまう。
「えーっと、持ち帰りでコーヒーひとつ、ブラックティーひとつ。んー、カフェオレが…いくつだっけ?」
考え込むように難しい顔をするムルさんに、わたしは「さっきの方はふたつっておっしゃってましたよ」と伝える。ムルさんは「じゃあそれで!」と笑うと財布を開ける。
「はい、ちょうど。」
小銭までぴったりの金額を財布から取り出すと、ムルさんはこちらをじっと見る。そしてまた考え込むような顔をする。
「どうしました?」
「…ああ、ううん、きっと気のせいだね。なんでもない!」
「そうですか?それじゃあ、用意できましたらお呼びします。向こうのカウンターでお待ちくださいね。」
わたしはムルさんにそう伝えて、ドリンクをつくる準備をする。機械仕掛けのクリーマーとグラインダーで下準備。手入れでドリップするコーヒーとティーは、どちらも魔法科学式のウォーマーで温められたドリンクカップに入れる。これにいれるとドリンクの温かさが三時間は持続する。魔法みたいだけど魔法じゃない。その昔、この西の国のえらい学者さんが、発明したのだそうだ。
「ねえ。」
あたたかいミルクをエスプレッソに注ぎ込んでいると、ムルさんに声をかけられる。
「君は、魔女だね。」
想像もしないような言葉だった。
虚をつかれたようで、ぽかんとしてしまう。
「わたしが、魔女?」
「そうだよ、魔女だ。」
聞き間違いかと思って聞き返すけれど、ムルさんは確信をもって頷いた。
「でも、わたしには、魔力がありませんよ?」
「うーん。それじゃあ、過去の記憶が欠けているんじゃない?」
「…なぜわかるの」
「俺もそうだから。ちょっと似てるね」
「どういうこと?」
「きっと君の場合は、そうだな。あることで心を失って、それで魔力を一時的に失ったんだよ。記憶と一緒に」
激しく動いていたウォーマーが、役目を終えてピタッと止まる。
わたしはハッと息をのむ。
「俺には、わかるのさ」
「…それじゃあ、わたしは、どうして心を失ったんでしょう」
取り乱さないよう、なるべく静かに声を出す。止まっていた手を動かして、ドリンクを詰めていく。「んー、それは…」ムルさんは何かを思い出すように中空をにらんで、それから、
「よくわかんない!」
と、元気に笑った。拍子抜けするような明るい笑顔。そしてそのまま彼はドリンクを受け取るために両方の手のひらを差し出した。わたしはなんだか催促されているような気分になって、慌ててムルさんのほうへ紙袋を差し出す。「…あっ、だけどもうひとつだけ」伸ばした手をぴたりと止めて、ムルさんはそう言うと、わたしの方をじっと見た。
「確かにわかることがある。俺、君とは”初対面”のはずなのに、わかるよ」
次こそ手渡した紙袋をしっかり握ると、ムルさんはこめかみのあたりをとんとんと人差し指で叩いて「さあ、よく聞いて。」とわたしの目を覗き込むように見つめる。
「"君の淹れる紅茶は美味しい、コーヒーよりも、紅茶が良いんだ。"」
「…俺にはなぜだかそれが確かにわかるんだけど、どうしてわかるんだろうね。君はどうしてだと思う?人生には謎が多い方が面白いから、あえて今、答えは出さないでおこうか。」ムルさんはそういうと、こちらを見透かすような、ニヒルな笑顔をちらりと浮かべる。
そんなくるくると変わる彼の表情に、呆気にとられてぽかんとしているとムルさんは
「ああ、もう時間だからいくね!迎えが来たんだ。」
とやけにすっきりしたような顔で片手を挙げた。「それじゃあまたね、なまえ。」わたしだけに聞こえるような声で、ちいさく囁いて、去っていく。
店の出入り口では彼のお連れの(先ほどの長身の男性ではなく、)かわいらしい赤毛の男の子がムルさんを呼んでいた。「ムル、遅いよ!」「あはは、ごめんごめん」そんな朗らかなやりとりを、わたしはまだぼうっとしたままで見つめている。
あのひとは、ムルさんは今、わたしの名前を呼んだ。
制服についたネームプレートには書いていない、わたしの、ファーストネームを。
『君の淹れる紅茶は美味しい、コーヒーよりも、紅茶が良いんだ。』
ムルさんの言葉が脳内でぐるぐると回って、そしてその声色に艶やかさと甘やかな低さが増していく。
『…馬鹿だな、君は。俺は確かに止めたのに。』
ムルさんと同じ声が、さっきよりもすこしだけ冷めたように淡白なその声が、別の言葉を、甘く酷く囁いている。『君は馬鹿だ。ねえ、なまえ』わたしの名前を呼んでいる。
次の刹那、濁流のように記憶が、あまたの記憶がわたしの身体を駆け抜ける。
寒い寒い夜、エメラルドの湖面のような瞳、紺碧のマント、片方だけ釣り上げるように笑う、あなたのセクシーで意地悪な微笑み。
・・・
約束は、しなかった。
たしかにそう思っていた。
あの日だって。
「ムル、いなくなるってどういうこと?」
『ああ、確実にそうなるって決まったわけじゃない。可能性があるってことだよ。』
「…それが低い可能性であればわたしにわざわざ伝えたりしないでしょう」
『君は敏いね。そういうところ、嫌いじゃないな。』
『予感がするんだ、俺はそろそろ禁忌の域に踏み入ってしまうんだと思う。だけれどね、今更引き返したりはできない。偉大な愛のためにね。…わかるかい?』ムルはどこか楽し気に笑うから、わたしはどうしようもなく腹が立った。
「ふざけないで!いきなり、一方的にいなくなるなんて」
『嫌だな、俺はふざけてなんてないさ。君だってわかってるはずだよ、君のことはいとおしいけれど、俺が一番に愛しているのは、厄災だけだってこと。』
憎たらしい、愛しい男は、取り乱すわたしに、いやらしいくらい几帳面な態度でそう説明して、突き放す。それなのにわたしが力を無くしてゆっくりとバランスを崩すと、優しく優しく抱きしめる。まるで、愛する女にするように、甘い手つきで、やわらかに触れてくるのだ。
『ああ。とっくに置いて行かれるとわかっているのに、そうやって、ずっと俺を愛し続けているところ、どうしようもなく可愛いね。』
耳元でそう囁かれるとわたしの思考はもう全部ストップしてしまって、即効性の毒に侵されたように動けなくなる。
『なまえ。俺と会えなくなってしまうからって君は、約束なんかしたらだめだよ。どんなに絶望したとしてもね。』
ムルの声はいつも通り淡白だったけれど、わたしには、なにか邪悪な呪詛が含まれているように聞こえた。まるで未来を誘導する罠のように、甘く酷く囁くのだ。
惚れたら負けなんだ、人生も恋もぜんぶおわり。心が壊れそうに痛いけれど、わたしは決して”約束”なんてしてやるもんかと思った。わざわざ忠告されたって、するもんか。
その男に抱かれながら強く決意した。
なのに、それなのに。
男の魂が砕け散る直前、あろうことかわたしは男のことを祈った。そして、
「約束する。あなたがもしも魂を失った時、わたしも同じようになると約束する。」
弱弱しい声でそう呟いた。約束してしまったのだった。
それは男のためなんかじゃなかった。
いくら手を伸ばしてもつかめない、意地悪で、まっすぐで、最低なその男を好きになってしまった自分のための贖罪でしかなかった。
さんざん惚れさせられて、振り回されて、挙句の果てに置いて行かれる、可哀そうな自分のために約束したのだ。涙は止まらなかった。叶いっこないとわかっていても、どうしたって好きだったから。あの男を愛していたから。あわれな自分のちっぽけな恋心の墓標として、わたしは無様に約束してしまったのだった。
だから、約束通り、魔力を失った。
男の魂が砕け散った時、わたしの魂は狂って壊れた。
さすがに砕け散ることなどはなかったようだけれど、わたしの魂は彼のそれと同じように一度リセットされ、白痴のようになったのだった。
すべて忘れた。その時、心がボロボロに壊れてしまった。そしてわたしは、そんなことさえ、すべて忘れてしまった。
自分のこと、自分自身の魔法のこと、そしてあなたのことまでも。
すっかり忘れ去っていた。
わたしは、そうしたかったのだと思う。
身を滅ぼすような恋も、決して叶わない想いも、触れた熱も、聞こえなくなる声も、勝手に消えて届かなくなる、あなたのすべてを、忘れたかったのだと思う。
・・・
『君の淹れる紅茶は美味しい、コーヒーよりも、紅茶が良いんだ。』
店を出ていった”ムルさん” の言葉が、わたしの名前を呼ぶあの声が、呪いを解いてしまった。
あなたって本当にずるくて酷くて意地悪な人。わたしをこの想いから逃がしてさえくれない。あなたは。
「おやおや、やっぱりムルに苛められたんですか?」
「可哀そうな人。」思わずカウンターにしゃがみこんだわたしの肩に手を置いて、どこからか戻ってきたシャイロックが、妖しげに、訳知り顔で微笑んだ。
わたしは耐えきれなくなって顔を覆って静かに泣いた。
すべての記憶がいっぺんに戻ってきて、皮肉にも、魔力が少しずつ戻るのを感じた。身体の中心が熱い。こころに灯がともる。激しい愛情がよみがえる。
「ねえ、シャイロック。あの人は、ムルは、何も覚えていないの?」
かすれる声で、とぎれとぎれ、問いかける。シャイロックはひとつだけ息をついて、わたしの背中をあやすように撫でた。「なまえ、どうか悲しまないで。あの男は、」
「”ムル”は、魂が砕け散ったまま、都合の悪いことばかりを『忘れて』いるんです。ねぇ、ひどい男でしょう?」
そうつづけられた言葉に思わず笑ってしまいそうになった。こんなに心が苦しいのに、こんなに涙が止まらないのに、吹き出してしまいそうになった。なんてあなたらしいんでしょう。だってわたしとのことはすべて、今のあなたにとって”都合が悪い”忘れたいことだって言うんでしょう?あなたみたいな厄介で傲慢な人間にとって、それが迂遠な、愛の婉曲表現じゃなかったら、一体何なのだろう。
苦々しい顔をして、少し笑って、それから片目を閉じてウインクする、あの男の姿を思い出す。やけに鮮明に思い出す。そうね、あなたはやっぱりひどい男。
自分はすっかりすべて手離しているふりをして、わたしにはこうしてしっかりすべて思い出させて、押し付けて逃げていくんだもの。
わたしが魔女である限り、あなたを好きでいることをやめられない。あなたが生きている限り、わたしはあなたを想い続けて魔法を使う。そういう運命なんだろう。運命には逃げられない。
あなたは自分勝手で、まっすぐで、いつも真理だけを求めて進んでゆく。それ以外のほかのことなんかすべて後回しにして、わたしのことなんか真っ先に放っておいて。ああ本当にひどい男。だから愛しい。
こんなに涙が出るのなら、約束なんて、しなきゃよかった。
・・・・
企画サイト「epangelia」様に提出させていただきました!
素敵な企画に参加できてうれしいです!
本当にありがとうございました!
※マヴェリック=「焼印の押されていない仔牛」の意
※約束について捏造の可能性がありますが、そもそもヒロインの”約束”は誰かと交わされたものではないのでただの呪いであり、不完全なものだったのかもしれません。
(21.03.04)