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あなたは、突然消えてしまった。


ぺたりと床に座り込んだまま、窓の外を見る。
そろそろ南風があたたかくなるころだろう。
ただ、世界の音を聞いていた。
木々のざわめきと、鳥の声、少し離れた場所から、人間の子どもの声までする。今日は風が強いから、強風は音を運んで、こんなところまで聞こえてくるのだろう。

しんしんと、身体が冷える。
静かで冷たい部屋にいると、心が身体から分裂して、空間に溶けていくような気がする。
昔からだ。昔から、ときたまそんな気がしている。決して離人症というわけではない、と思う。だってこれを病気というなら、人間も魔法使いも、みんながみんな病気じゃないか。戦って、失って、苦しむということがわかっているのにまた戦う。生きているのが、苦役でないわけがない。この世には、この苦しみの感情を、自覚するものとしないものがいるだけ。ただそれだけ。だからわたしは、病気なんかではない。

凍る大地が、雪解けへ。
死の季節から、生の季節へ。
その変わり目だからかな。
ここ最近は、離人的な苦しさが、一段と強い。身体からこころが離れて、浮遊して、わたしを置いて行ってしまう。そんなイメージが頭を離れない。

馬鹿らしいことだ。
そもそも自己なんて、ありはしないのに。
だってこの肉体の内部には、さまざまな器官や血液がぎゅうぎゅうに詰め込まれているだけなのだ。そんな肉のかたまり、自己なんて崇高なものが、どこに宿るというのか。
はじめから存在しないものを、失うような危機感、不安感。これは行き過ぎた生への渇望、生そのものすら脅かすほどの、死への恐れ。わたしは死にたくない、だけれど生きたくもない。最悪だ。
ああ、倫理なんて、この世界のどこにあるというの。

すっかり冷めた指先をかさねて、ふっと吐息を吐きかける。
立ち上がって、数歩あるいて、オイルヒーターの、電源をいれればよいのだ。それだけで、きっと身体は温度を取り戻してゆくだろう。だのに、たったそれだけのことが、どうしてかできない。全身が冷えていくのを、体温がこの部屋の凍えた室温ととけあっていくのを、そのままにしている。まるで、身体感覚が自分のこころにしっかりと伝達していることを、確かめるように。

そもそもこの世界にわたし自身”存在している”という事実が、実に曖昧なのだ。
今日いたはずの誰かは、突然明日いなくなるかもしれない。それは自己に対してもそうで、もっというとこの意識も、精神も、すべてが砕け散った瞬間に、ふっとこの世界から消えてしまう。消すのは死であり、自分自身であり、それ以外のあまたの他者だ。すべてが砕け散った瞬間に、ふっとこの世界から消えてしまう。
…まるで彼のように。
一瞬で、たしかなものが消えていく。

ねえ、こんなとき、あなたならなんて言うかな。稀代の天才、恋しい人。
あなたならさ、わたしのお粗末な思考実験は全部うっちゃって、いちからすべてを、構造的に説明してくれるんだろうな。
嫌ってほどストレートな物言いでわたしのことをぐちゃぐちゃに否定してから、全部をもういちどあなたらしいやり方で肯定して、そしてそれから、知らんぷりして遠くへ放り投げるんだろうな。わたしをまた生きれるように組み立てなおして、この世界に乱暴に突き返すんだろうな。
そんなことを、何百年も前からあなたが、無慈悲にも繰り返し、ひっきりなしにやってきたから。だからあなたがいないだけで、わたしはこんな、死人みたいなことになっているの。こころの底から迷って困って苦しんだ時は、あなたがいつだって現れて、わたしのこころを再構築してくれた。素知らぬ顔で、なんでもないふりで、魔法をかけるようにわたしをつくり替えてくれた。言葉で、思想で、その声で、乱暴に。
あなたはわたしを、定期的に複雑に故障するおかしなおもちゃだとでも思っていたのかもしれないけれどね、だけどね、わたしは、生きてる。生きているのよ。メンテナンスができなくなったらそのまま捨て去られるだけの、ただのおもちゃなんかじゃないの。残念ながら、感情を持って生きているのよ、あなたがいなくなってしまっても。

ああ消えてしまいたい。
あなたのいない世界など、真理を欠いたつまらぬお芝居。最悪な三文芝居のよう。わたしはただ、今日も流れていく景色を眺めるだけ。まるで正解のない間違い探しみたいにね。
できることなら今すぐに、とおい宇宙に自分自身を投げ出して、すべての記憶をうしなって、それでとうとう誰かに拾われるのを待って、また人生をスタートしなおしたい。この世に真理など初めからないと、そう思い決めてすべてを諦めて生きて行きたい。あなたなど、この世界に初めから存在していなかったと。そう思えたらどんなに楽か。


開けっ放しにしていた窓から、びゅん、と生ぬるい風が吹きつける。
この部屋より、外の空気の方があたたかいかもしれないだなんて、ほんと、ばかげてる。風がふいて、レースのカーテンがふわふわと踊る。目の前をさえぎる。木の葉や花びらが、何枚か部屋に入り込んでくる。あたりが一瞬暗くなる。


「きみ、泣いてる?」

幻聴が聞こえる。
まぼろしだってわかっているのに、わたしはすなおにこくり、とうなずく。
部屋はどよんと暗くなってしまったままで、まわりはよく見えない。

「やっぱり。そうかと思って来てあげたんだ、わざわざね。」

暗闇が消えて、外の光が部屋に差し込む。
そうか、今日は晴れていたのか、こんなにも。とろけるような日差し。
いまだ冷え切ってるのは、世界中でも、この部屋だけなのかもしれない。

「やあ、久しぶりだね。また心が壊れちゃったのかい?君は、おれが何度修理してやってもそうやってすぐに壊す」

「…それとも、わざと壊したのかな。」わたしのおろかな脳みそは、ついに幻覚までつくりだす。

「時間がないから手短にたのむよ。さあ、君の考えていたことすべてに、ひとつずつ答えを出してあげよう」

そういうと、窓から強風とともに入ってきたムルは、慣れた手つきで窓際のオイルヒーターの電源を付ける。いとも簡単に熱が発生する。それから彼は、わたしの前にしゃがみ込む。「まずは何から手をつけようか。そうだな、苦しみについてかな」

「人生に苦しみは不可欠だ。苦しみがない世界では愉しみなんて存在しないからね。双方は相関関係なんだ。だけれどね、苦しみを嘆きつつ世界を見るか、愉しみに力点を置いて世界を歩むか、それは個人で自由に選ぶことができる。意志さえすれば。」

そこまで一息で言い切ると、ムルはわたしを見下ろしながら立ち上がる。
ふう、と息をつく。ゆったりとした歩調で、部屋のなかを旋回しはじめる。こつこつと、固い足音が響く。

「君は魔女のくせにいささか保守的すぎる。苦しみや悲しみへの懺悔なんて人間や宗教者に任せておけばいい。おれは愉しみなくして生きている意味はないって思っているから、苦しみや悲しみなどおかまいなしに、世界中の未知や余白をひたすら探求する。…しかしね、未知の場所や進むべき余白に誰かが手を伸ばすとき、必ずや犠牲が生じるんだ。それは摂理。たとえば、おれたちは狩りする代わりに発明をするね。思考する、そして戦争もする。それらには必ず犠牲がつきものだ。…君は保守的な性分だから、おれが消えたのだって、悲劇だって思ってるだろう?それは違うよ、おれは消えるべくして消えた。なぜならそこに、おれの求める未知があったからだ」

「…ああ、お次は、自己と存在について、だったかな。今度はやけに哲学的な事柄を問題にしたね、諭し甲斐があるな。」ムルは断りもなしにボトルホルダーに置いてあったワインの中から、見慣れたラベルのそれを引っ張りだす。ここに来ていたときによくムルがつかっていた大き目の、飲み口が紙のように薄いワイングラスを迷いなく手に取り、静かに注ぐと、話を進める。

「自己というものについての通説は、すべて説明しているとあまりに長くなるから割愛しよう。というか、以前すでに説明したことがあったんじゃないかな。…自己、内的自己と外的自己、君は内的自己をメインとして自己をとらえているようだけど、情緒をゆるめてもっと外的な自己を意識したほうがいい。…つまり、君が意識していなくても君という存在は世界に存在してしまっているんだよ。君が意識しようがしまいが。内側からのみ自己を統率できるなんて考えるのは、おこがましいにもほどがある。その思想は愚かなおごりだよ。早急にやめるべきだ。」

「はは、一気にたくさんのことを言われて、呆気にとられたって顔してる。その顔、おれは嫌いじゃないよ。」ムルは楽しそうに笑うと、わたしのおでこをつん、と指で突く。

「とにかく君は、肉体も魂もいま、ここにある。ここでたしかに生きてることが取り柄なんだよ。だってそれこそがおれをこうして行動させる、唯一にして最大の理由なんだから。」

ムルはあまりに鷹揚な口ぶりでそんなことをのたまうと、わたしの目の前の椅子に腰かけて、ワインをひとくち口に含む。
こくり、と、のどぼとけがゆっくり上下する。
わたしの目には、彼がたしかに液体を嚥下しているように見えるが、どうやら、ワインの量は減っていない。不思議なことに。


「おれが戻るまでは何百年でもきちんとひとりで生きていなくちゃいけない。自分の心をすこしも壊さないように。乱さないように。…わかったかい?」

「返事なら、イエスしか受け付けないけれど。」ムルは目を細めてわたしにそう言い放った。


「さあ、わかったなら今ここでおれに約束するんだ、決して死にはしないと。」

ムルに突然そう要求されて、わたしは夢見るように、譫言のようにふわふわと約束させられる。まるで強力な魔法にかけられたように、口が勝手に動く。

「…あなたが戻るまで死なないわ、心だって壊さない。約束する。」

「よし、いい子だ」

ムルは満足げにほんの少し口角を上げると、持っていたワイングラスをテーブルに置いた。椅子から立ち上がり、強風に煽られた髪を、さらりと撫でる。

「ほら、春はすぐそこまで来ている。まるで祝福のように!」

高らかに声を上げたムルが、手品のように小さな花火をだした。きゅっと片方の手をきつく握ると、すぐにふわりと開く。桃色の花びらがひらひら舞って、そこにはきれいに透き通った紫色の欠片がひとつ。

「これは、君が持っておいて。」

「ねえ、ムル、ねえ、」

茫然自失だったわたしが、やっと意識をたぐりよせて口を開くと、ムルはそれを制するように手のひらをひらひらさせた。

「それじゃあおれはおれの仕事を済ませたし、もういくよ。新しい"ムル"にどうぞよろしく」

ゆるりと口元を緩めて、こちらに歩み寄る。
きらりと光る欠片をわたしの手に載せたかと思うと、そのまままぼろしのように消えた。消えてしまった。あなたは、また。


部屋には、テーブルに置かれたワイングラスと、薄く色づいた花びらと、小さな小さな欠片だけがぽつんと残された。たしかにオイルヒーターは灯されていて、ワインの瓶は開けられている。とてもやりきれなくてわたしは、今まで抑えていたさまざまな気持ちを爆発させるように泣いた。
深呼吸したって、時間はとまらない。
ムルの残り香はすべて、強い南風がさらっていった。
わたしは、とんでもない約束をしてしまった。


しあわせになれなくても、
わたしが決して死ぬことはない。



(21.01.19)



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