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 お父さんお母さんが居ないって、どんな感じ?


 ゆるやかな口調だった。皮肉とか、同情とか、そういった類のものはなんにも含まれていない、ただ純粋な疑問だった。
 だが、内容が内容なだけに、俺は一瞬思考回路が停止して、テレビから流れてくるお笑い芸人のきっと面白いであろう実母の行動の話も右耳から左耳へ流れ出るし、字幕もお笑い芸人の身振り手振りも一切頭に入らなかった。

 あまり両親の話はしない。というかしたいとは思わない。そういう奴らが、ここに集まっている。それはなまえも重々承知しているはずだった。


「なんでそんなこと聞くわけ」
「なんとなく。マサキは前はお父さんもお母さんも居たから、どんな風だったのかなあって」

 なまえはけろりとしていた。悪気とか、いやらしさは微塵も感じられなかった。そのせいでなんだか怒るに怒れなくなってしまって、俺は言葉になりきれない思いを溜息に交えた。そこから俺の気持ちを悟ったのか、「ああ、言いたくなかったら良いの。少し知りたかっただけ」と遅すぎるフォローをした。


「つーか、なまえも両親居ねーじゃん。一緒だろ」

 頭を乱暴に掻いて気を紛らわせる。なまえの瞳が一瞬だけ揺れた。それに小さな疑問を持ったのも束の間、なまえはいたって普通の口調で「わたし、お父さんお母さんの記憶ないもん」と言った。その瞬間、手が止まる。時間も心臓も止まったかのような錯覚に陥った。


「わたし、生まれてすぐにこの園の前で泣いてたの」

 それが何を比喩しているのかなんてすぐに分かった。けれどそれに対するフォローが浮かばない俺は、子どもだ。足元に視線を落とす。ヒロトさんたちに比べれば、まだ小さな足が目に入った。そんなの視界に入れたくなくて、目を閉じる。


「別にひがんでないよ。ここに居たから手に入れられたもの、知らなくてよかったもの、いろいろあったもん」

 なまえは知っている。この場所で古株なんだから、その分複雑な事情を抱えてきた子どもを、たくさん知っている。そうやってここに残されていく子どもを見て、こいつは何を感じたんだろう。両親を知らなくて良かったとか、かわいそうだとか、もっと違うなにかなのか。そう思うと、このへらへらとした顔も態度も、今までと一変してなにか達観しているような印象を受けるようになった。俺は意外と、こいつのことを知らないのかもしれない。今まで特別知ろうとも思わなかったからか。妙な笑顔を貼りつけるなまえの横顔をじっと見つめた。お前は、何を考えて、どんな思いでこのことを聞いているんだよ。


「質問変えるね。お父さんとお母さんが居るって、どんな感じだった?」

 体育座りで膝にあごを乗せて、やはり変わらずゆるやかな口調でなまえはそう言った。
 こいつって本当に何か考えて俺に聞いているのか?ふつう、気を遣ってそこは聞かないだろ。俺は交通事故で両親と離れたわけでも、病気で離れたわけでもない。俺は「いらない子」だったんだ。ああ、あの時までは俺はたぶん幸せを感じていたんだ。今が不幸せなわけじゃないけど、あんなの知らない方が俺も良かった。


「わたし知らないから。でも、知っておかなきゃいけない」

 意味分かんねー。そう言ってやろうと思ったのに、なまえの横顔は急に真剣味を帯びてきていて、その言葉を呑みこんだ。ますます意味分かんねえ。知らなくて良いじゃん、別に。知って得するとは思えない。聞いてどうしたいんだよ、お前は。

 謎が深まるなまえを見つめたって、なまえの心境が分かるはずもなく、俺は諦めてテレビに視線を移した。


「マサキ」
「…教えてやんねー」

 ずっとテレビに目を向けていた。網膜にはお笑い芸人のオーバーなリアクションも、笑顔ながら淡々とこなす司会も映っていた。音だって、たぶん耳には入っていた。けど、俺の脳内を占めるのは過去の映像だけだった。忘れようとしても忘れられない、今の俺を確実に形成させた過去は、いつになったら俺を解放してくれるのだろう。温もりも冷たさも、全部鮮明に覚えている。ピントが合わなくなって、ぼやけてほしいのに。
 そんなぐるぐると脳内を駆け巡る映像を途切れさせたのは、なまえのやけにしっかりとした声だった。


「わたし受けようと思う」
「は?何を?」
「ふふ、マサキだけに教えとく。わたし、ここ出るね」

 すっきりしたような爽やかな笑みを向けられ、戸惑わずにはいられない。一瞬なまえの言うことが分からなかった。疑問に疑問を重ねて、それが繋がると、なまえの行動には一貫性があることにようやく気付いた。いきなり「親」という存在について聞いてきたのも、知らなければいけないという妙な義務感も、「ここを出る」ことも、全部なまえのこれからの行動に繋がっていた。なんなんだよおまえ、ふざけんなよ。俺だ
けに言ってどうすんだよ。もっと居るだろ。お前になついてたやつとか、女子とか、なあ。まじ、意味分かんねえ。


「他の人には言わないでね。送り出されたりしたら、泣いちゃうから」

 人差し指を唇にあてながら、いたずらっぽく笑う。そこではっと、自分が口を開きっぱなしだったことに気づく。唇をきゅっと噛んで、なまえに向けて声を発していた。おどろくほどに、低い声だった。


「俺なんかにそんなこと言ってんじゃねえよ、…ばかだろ、おまえ」
「…わたしより、マサキのがもっとばかだね」

 くすくすと小さく笑うなまえに胸のあたりがむかむかしてくる。怒鳴るわけにもいかないし、かといってこのまま言われて終わるわけにもいかない。俺のプライドの問題ってやつだ。でも、良い方法が見つからない。むかむかは増すばかりで、俺は怒りを抑えるように手を強く握り締めた。読み取れないなまえの笑顔からも目をそらした。そんなので、むかむかが消えるわけじゃないけど。


「マサキはさみしがり屋だから、手紙書いてあげる」
「俺に書く前にチビたちに書いてやれよ」
「…ううん、あの子たちの泣いちゃう原因になりたくないから。マサキなら、泣かないでしょ」

 チビたちの顔を思い浮かべると、あいつらがべそべそ泣いてなまえの名前を連呼する様子はたやすく想像できた。なまえもたぶんそうだったのだろう。じゃあ俺は泣かないってか。俺だって人間で、普通の中学生だぞ。そう反論しようと思ったが、なまえから手紙をよこされてべそべそ泣く自分が想像できなかった。というより、なまえから手紙が来ることもなまえが居ないお日さま園も現実味がなかっただけだった。なまえだって自分の住む場所がここじゃなくなることの想像なんていまさら出来ないだろう。
 そうやって考えてなまえに返事をしないでいると、「じゃあね」なんて言葉が聞こえて俺は咄嗟になまえの居た方向に顔を向けた。向けられた背中にさえ何もかけられないで、ドアの向こうに消えるまでただ見つめていた。

 なまえと言葉を交わしたのは、それが最後だった。





 なまえは要らないといった送別会は小さいながらにも開かれて、案の定チビたちは鼻水たらしてそれも気にせず顔をぐしゃぐしゃにして泣きわめいていた。それを諭すようにやさしく頭を撫でる姿は大人びて見えた。チビたちが泣き止むとキャリーバッグに手をかけて、とびっきりの笑顔で「ありがとうございました!」と最後の言葉を残した。なまえの背中が小さくなるにつれ再びぐずりだすチビは、なまえが見えなくなった瞬間大きな声で泣き出した。それを瞳子さんとかがあやしているのが視界の端に映った。でも俺はなまえが消えた曲がり角から目をそらせないでいた。誰かに声をかけられるまで、飽きるほど、ずっと。

 俺はその日、泣かなかった。


 一か月くらい経ってから、学校から帰って部屋に戻ると机の上に一通の手紙が置かれていた。見覚えのある文字に、心当たりのある相手、裏を向けて差出人の名前が目に入った瞬間、視界のピントがずれていく。

 ああやっぱり、「俺だって人間で、普通の中学生だぞ」って反論しておけばよかった。




なんにもしらない、

むしろなにをしっていたんだろうね



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