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 夏がもう終わろうとしていた。今日という一日も終わりの準備を始めている。沈みゆく太陽は、目に沁みた。目をきつく閉じると目じりにはうっすらと涙が滲んだ。

 不意打ちだった。
 ふと脳裏にちらついたのは、いつかのわたしの姿。何年前になるんだろう。なんにもしらない、純粋なころ。

 気温が、湿度が、太陽が、わたしを取り巻いているこの環境が、ふいに感傷的にさせたのだ。夕陽に目を向けなければ、こんな気持ちにならなかったかもしれない。ほんの少しの後悔と、寂寥感がわたしを包んでいく。うっすらと目を開けようとすると、やはり煌々とかがやきを放っていて、痛かった。ゆるく目を閉じると、すき間から光が差し込んでくる。痛くはない。ただ、記憶の奥底にうもれていた純粋なわたしをするすると引っ張り出していく。純粋だったころのわたしは、なんの抵抗もなく、そしてそのころのきらきらとした思い出を抱えて、わたしの心のど真ん中に居座った。


 脳裏にちらつく程度ではすまなくなった思い出は、遠い昔のようだ。忘れたことはないのに。
 社会に出てから、たくさんのものを得て失った。純粋なわたしが知らないようなこと。希望にあふれて、突き進んでいたわたしはもう居ない。あるのは、今のわたし。


 好き、だけじゃうまくいかないことも、理不尽というものがあることも、正義なんて無意味だということも、あのころのわたしは知らない。きっと教えても、「そんなことない」と主張するに違いない。


 世界はいつだって、矛盾と寄り添って、わたしたちを縛り付ける。





 手で影をつくって、夕焼けを目にしようと試みる。それでもまぶしくって、とても直視できそうにはなかった。ぼやけた視界のまま、前へ向き直った。すると先ほどとは異なる光景に、思わず目を見開く。


「あかし、くん」

 夕焼けに溶かされそうな、赤毛の人。何年振りになるんだろう。なにかを得て失っただろう、今の彼。
 赤司くんは最初からわたしに気づいていたようで、ふっと口元をかすかにゆるめた。「もの思いにふけっているようだったから」と、おそらく、声をかけなかった弁解をされる。思い出にひたっていたんだよ、そう訂正すると「いつの?」と食いついてきた赤司くんが意外だった。


「わたしが純粋だったころ」
「それじゃあ今が不純であるような言い草だね」
「なんにもしらなかったの、わたし。あれからたくさんのことを学んでしまった」
「知っている方が良いこともあるが」
「しらないままが良かった」

 赤司くんから目線をそらす。斜め下に落ちた目線の先には、夕焼けのせいでくすんだコンクリートがあった。

 知っているにこしたことはないものすべてが正しいとは限らない。信じていたものとは限らない。
 気がつくと大事なことがぼやけてしまっていた。それにようやく気づいたなんて。あの夕陽は、きらきらとした記憶と大切な人に巡り合わせてくれたようだった。わたしを、今まで支えてくれたものだ。


「だからこそ、記憶はかがやいているのかな」

 ぽつりと口からこぼれた言葉はずいぶん詩的だった。赤司くんは、嘲笑するのかと思ったが穏やかに微笑んで「そうだね」と肯定した。あ、なつかしい。こんな風に優雅に微笑む人は、わたしの知る限りでは赤司くんくらいだった。
 そのおかげか、肯定の言葉はわたしの中にすとんと落ちてきた。肩の力が抜けていくようだ。大事なことが再び見えてきた。きっとまたぼやけてしまうのだろうけれど。そのときは、また思い出せばいい。そうすれば見えてくると思うから。わたしの視界は一気に明瞭になっていく。

 わたしは赤司くんの緋色の瞳をまっすぐに見る。するすると言葉は夕焼けに溶けていった。


「赤司くん、ごはん食べに行こう」



 夕陽に目を向ければ、やはりまぶしい。なのに、包み込んでくれるようなあたたかさがあった。純粋なわたしはおとなしく、また奥底に戻っていく。きらきらとした遠い記憶とともに。だいじょうぶ、わすれないよ。

 記憶はいつだって、色褪せることなくかがやいて、わたしたちを照らしてくれる。



サンセット

song:茜色(れるりり)


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