午後9時。眼鏡を外して一息ついたルーシィは大きく伸びをし、パソコンの電源を落とした。週の始めにしては遅くまで残業しすぎてしまった。室内には何人かまだ残って、彼等に挨拶をするとルーシィは重い足取りで会社を出る。

「疲れた…明日は絶対定時でかえろ…」

地下鉄一本で自宅へは着くが、駅まで歩くのも億劫だ。タクシーを使いたい、そう思いながらぼーっと横を過ぎていくタクシー達を見つめて葛藤していると、男性から声がかかった。名前を呼ばれた為振り返ると、どこかで見たことがあるようなないような、甘い顔立ちをした白銀の髪の男性がきょとんとした顔でこちらを見つめていた。

「…………ヒ、ヒビキさん?」
「あー、やっぱりルーシィちゃんだ。どうしたの?一人〜?」

屈託ない笑顔を見せるその人は彼の友人。彼等と出逢ったあの日、失恋を告白した後店を飛び出したことをルーシィはなんとなく思い出した。気まずそうに体をやや丸めて、笑顔をつくる。

「…仕事だったんです。」
「え?こんな時間まで?」
「いつもはもっと早いんですけど…ヒビキさんこそ、こんな時間にどうしたんですか?」
「僕は大学帰りだよ、家あそこのマンションだから。」

ヒビキが指差す先に聳えるマンションにルーシィはぎょっとした。3年前にわざわざビルを取り壊して立てられた超高層マンションは、こんな家にいつか住んでみたいと願いつつもあまりの家賃の高さに当たり前に手が出ず、ものには分相応があると諦めた場所だ。
もっとも、父親に頼めばすぐにでも入居して家賃からなにから全て援助してもらえただろうが、父が再婚した日に一人で生活していくことを決めたルーシィはそれだけはごめんだった。

そういえばヒビキは大学圏内にある実家を出て一人暮らしをしていると、飲んだ時に聞いたような覚えはある。学生の分際でこんな高級マンションに住むとは、彼の家柄に興味がわいた。
ルーシィが何を考えているのか見透かすように、ヒビキはその目を優しく細めて薄く笑う。

「うち医者家系だから。母親は某下着ブランドの社長だしね。」
「あ、ああそう…い、医学部の学生はみんなこんなとこにすんでるのかしら…」
「さあ、みんながみんなとは限らないんじゃない?レオは普通に実家だし。」

度肝を抜かれていたルーシィだが、そういえば彼がいつも連んでいるあの人がいない。がっくりしたルーシィの口からは、寂しげに溜め息が吐き出された。

「今日は…一緒じゃないんですね。」

言ってから後悔した。これではまるで、あなたで残念ですと言っているようなものだ。なんて失礼極まりない、とぐるぐる頭の中でどう謝ろうか考えていたとき、柔らかい声が耳に響く。

「ルーシィちゃん、お疲れのとこ悪いんだけどさ、ちょっとお茶でもしてかないかい?」

そう、柔らかく微笑んだヒビキにルーシィはどことなく居心地の良さを感じた。


あ、わかった。

ヒビキさんって…

レオに、笑い方が似てるんだ…





「あの、すみませんでした…」
「え?」

近くにあった、昼間シェリーとランチをしたいつものカフェに入った2人はこの時間だと言うのに混み合っていることから、カウンターに通された。昼間と違って室内だけしか利用できないようになっている。

「せっかく楽しく飲んでたのに、急に帰ったりして…」
「ああ…いや、いいんだよ。僕のほうこそ、悪いことしちゃったなって気になってたんだ。」
「いえ、そんなこと…」

俯くルーシィは運ばれてきたカフェオレに口をつける。ヒビキは彼女の伏目がちな顔を見つめ、静かに口を開いた。

「聞いたんだって?」

きょとんと首を傾げるルーシィに、レオの両親のことだよ、とヒビキは困ったように笑った。

「……えっ、えと…」
「大丈夫。レオから聞いてるから。」

君の家に行ったこともね、と悪戯っぽく笑われ、ルーシィは頬を赤らめる。

「あ、あの、家に来たのは彼の気の迷いっていうか、なんてゆうか…べべべ別にあたしたちはなにも…」
「あはは、顔真っ赤だよ。」

わかりやすい反応を返してくれるルーシィに、ヒビキは彼女の元から帰ってきた翌日早朝、寝かせてくれと自分の家にやってきたレオを思い出した。目のしたに隈をつくり、事切れたように床で眠っていたレオが可愛らしく見えたのを覚えている。

(女の子を振り回すことはあっても、振り回されてぐるぐるしてるレオは初めて見たよ。)

そう考えると、ルーシィはすごい存在なのかもしれない。
ヒビキの視線に居心地悪そうにする彼女を安心させるよう柔らかく微笑む。

「レオのお父さんとお母さんは、テレビや雑誌に出るような有名な建築士だったんだ。セレモニーとかもよく招待されてて。…レオは親父さんが創るものが大好きだった。」

知らない人はいないほど、世界にも認められるようなものを創り上げる端から見ても仲の良い夫婦だった。また、隣に住む自分の父親とレオの父とは小学校からの付き合いだとよく聞かされていた。家を建てるときも、レオの両親に設計してもらったのだ。
ルーシィはそこで初めて、日本で群を抜いて注目を浴びていた建築士がいたことを思い出した。

「…あるとき、完成した祝いのセレモニーに呼ばれて、レオと姉のミラも一緒に連れて行ったんだ。少し遠かったけど、セレモニーは昼間だし、夕方にそこを出れば夜9時前には帰ってこれるはずだった。」

ヒビキの声が、僅かに震えた。

「その地域、昼を過ぎた頃から酷い豪雨になったらしい。川が氾濫して避難したりする人もいたし、土砂崩れの警報も出ていた。だけど、レオは次の日も両親が仕事が入ってるからと気にして、帰ると言ってきかなかったみたいでね。」

誰が悪いわけじゃない。レオはレオで両親を気遣っただけだ。両親は息子の気遣いをくんだだけだった。しかし不運なことに、スリップした大型トラックに巻き込まれ、あっけなく優しく聡明な男女2人は逝ってしまった。

「ひどい事故だったんだ。駆けつけたら、おじさんとおばさんは体が………っ…即死、だった…。兄弟みたいに育ったレオも、重症…。」
「…………。」
「レオは自分のせいだと、その日を境に笑うことを止めた。笑顔はつくるけど…ルーシィちゃんも気付いてたんじゃないかな、心が笑ってない。」

ルーシィの脳裏に、初めて出逢った彼の笑みが描かれる。
なにか違和感のある、寂しげな笑顔。

「レオは、今でも自分を責め続けているんだ。」


悲しそうに瞳を揺らすヒビキを、食い入るようにルーシィは見つめた。

あの日、自分に話をしてくれた彼はどんな気持ちだったのだろうか。

彼が住む世界は、きっとずっと、深い霧に覆われたままなのだ。

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