月下孤高


 汽笛のような音で、浅い眠りにあった意識が浮上する。

 月が明るい、蒼い世界。夜空には淡い星が瞬き、その傾きから時刻は深夜を回っていると判った。
 視線をずらせば、焚き火の明かりを遮る影。闇中にそこだけ暖色に揺らめく影を受け、彼の横顔は彫像のようだった。こんな夜の中であっても艶やかな黒髪が流れる。アスターはそれらを瞳に映しぼんやりと瞬きをしただけだったが、彼はわずかに身じろぎをして振り向いた。
「……ヴィンセント」
 冷えた空気に、溜め息のような声もはっきりと通った。呼ばれた男は静かに目を細める。
「起きて、たの?」
 不意に、思いのほか大きく獣の遠吠えが聞こえた。だからヴィンセントは眠らずにいたのだろう。暑い岩砂漠を歩くのに疲れ、野営地を決めたとたん倒れるように寝てしまったことが申し訳なくて、アスターは眠気を振り払い身体を起こす。かけられていた紅い布地が背から滑り落ちた。
「代わる。徹夜よくないよ」
「モンスターだ。寝ていろ」
 寝ていろと言われても、ヴィンセントに見張りを押しつけたまま眠る気にはなれない。かと言って、寝不足のまま明日を迎えるのも、けっきょく迷惑をかけることになるのも解っていた。
「……少しだけ。お腹空いたからご飯食べる」
 その間だけでも休んでほしいとアスターは砂を払ったマントを差し出した。
 鞄を手に焚き火ににじり寄るアスターを見つめ、ヴィンセントは小さく笑う。
「では少しだけ」
 立ち上がったヴィンセントは焚き火から離れるかと思いきや、彼女の背後に回った。膝の間に抱き込まれる。鞄から携帯食を取り出しているアスターを邪魔しないためか、両手は彼女を抱き締めることなく彼自身の膝に乗っていた。
「……ヴィンセント?」
 頭のてっぺんの感触で、ヴィンセントが首を傾げたのが判った。
「寝ないの?」
「これで十分だ」
 僅かな振動。恐らく頬ずりしているのだろう。アスターはちょっと呆れたが、背を覆われるのは暖かい。
 特に会話もないまま携帯食と白湯というつましい食事を終える。アスターが膝を抱えてヴィンセントにもたれかかると、受け止めた彼の腕が胴にまわった。
「静かだね」
 風はなく、生物の気配の薄い砂漠は、耳が痛いほどの静寂。人の気配もない。ざわめきも、街明かりも。
 月光に照らされ濃淡を描く岩壁と、星空は美しく果てしないが──息苦しいほどの寂寥感。この空気には覚えがある。
「昔みたい。ひとりぼっちだった頃」
 仲間たちと出会う前──自覚はしていなかったが、途方もなく孤独だった頃だ。
 どこへ行っても誰も助けてはくれない。人がいても、それは野で無害な獣と遭遇するのと大差ない。彼らにとってアスターの生死などどうでもいいのだ。謂われのない憎悪より、大衆の無関心の方がよほど怖いと、当時のアスターは感じていた。
「こんな感じ。夜、砂漠で、何にもなくて……行くところも帰るところも、願いもない感じ」
 少女の声は響くこともなくすっと闇に消えてゆく。
 ヴィンセントの手がマントの端を手繰り、彼女の膝を包む。冷たい世界から少しだけ隔離され、アスターは溜め息を吐いた。
「ヴィンセントは怖くなかった? ずっと、ひとりで」
 棺の闇を言っているのかと、彼は視線を落とす。
 恐ろしいといえば恐ろしかった。ヒトを逸脱した身体、罪の結末。それらは確かに永遠の孤独を約束していた。
 死ぬことはできず、本当に最後の逃げ道さえなく、ただ悪夢に苛まれるしかできない。それが正しかったのかも解らない。現実を知って後悔は上乗せさえされたが──
「ごめん。無理して言わないで」
 振り向いたアスターが両手で頬を包む。華奢な指は、いつも温かい。その手を捕らえ口付け、ヴィンセントは静かに言う。
「……おまえがいてくれる」
 アスターと共にいる今、過去を否定するつもりもない。おそらく彼女が思っているのと同じように。
「うん。独りにしないよ」
 独りにはならない。ずっとふたりだ。




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