まもるべきせかい
神羅屋敷の一室に、ヴィンセントは音もなく踏み込む。普段ならきちんとノックをするが、今は部屋の主も眠っている。 彼がベッドに膝を乗せた時も物音は立てなかったが、アスターはまだ半分寝ているような状態のまま身じろぎして少し場所を空ける。すっかり日常になってしまった流れだった。 うとうとしている少女を抱き寄せる。柔らかな髪に指を絡めながらそっと額に口付ければ、アスターは微かに笑うような吐息で抱きついてくる。細い指が、無意識かどうか、シャツの下に入り込み背に回った。 「──ッ!!」 鋭い痛みに思わず声が漏れた。 その手を振り払いそうになったのは辛うじて抑えた。僅かに身を引き、どうにか誤魔化そうと思ったのだが、彼女も触れた指先で気付いたらしい。 「え、……ヴィン、これ!?」 ばっと起き上がったアスターが灯りを点け、シャツをむしるようにして彼の背中を見る。 幾日か前にモンスターと戦った際に負った傷だった。彼の身体にしては治りが悪かったのだが、そのうち塞がるだろうと放置していたのだ。傷の痛みを無視する癖で、すっかり意識から追い出されていた。 アスターが顔をしかめたまま呪文を唱える。ケアル、ポイゾナ、エスナと、揺らぐ水底のように色合いの変わる光に照らされた顔はどんどん険しくなってゆく。 脈打つような痛みも、ずっと鈍くあった違和感も薄らいでいるから、傷は問題なく癒やせているのだろう……つまり彼女のこの表情は間違いなく彼に対する不満だ。 「……アスター?」 そっと名前を呼んだが返事はない。さらに俯いた彼女の表情は前髪に隠れてもう見えないが、指先は震えている。ひどく速い呼吸を繰り返していたアスターはその手を握りしめ── 「……っ!」 ひらりとベッドから降りたアスターの手を、掴もうとしたのだがすり抜けてしまった。届いたと思った指先が間に合わなかったことにヴィンセントは一瞬戸惑い、その隙に彼女は部屋を飛び出す。 呆然としているうちに彼女の足音は階下へ向かい、玄関扉を開ける音がホールにこだまするのを聞く。 さすがにこんな夜中に(夜でなくとも)アスターが屋敷を飛び出すのを放っておく訳にもいかず、慌てて後を追った。開け放されたままのドアの向こう、庭に人影はなく、門を開けた様子もなかったが、微かに魔力の残滓がある。すぐに消えた蛍火のような光から、移動の魔法を使ったのだと判った。 ヴィンセントは迷うことなくニブル山へ向かう。月が明るくて助かった。徘徊するモンスターは片っ端から無視し山腹を目指す。通い慣れた道の先、予想通り魔晄の泉のすぐ傍にうずくまる影があった。 ひとまず見つけたことに安堵する。ここまで魔法で来たのか、少女の裸足のままの足先も傷を作ってはいなかった。 「……アスター?」 名前を呼べばかすかに身じろぎする。顔を上げてはくれなかったが。 「……怒ったか?」 アスターは首を横に振りかけ──しばし間を置いて頷いた。膝を抱えた手がまたきつく握りしめられている。 傍らに膝をつき、丸めた背をそっとなでるだけのヴィンセントに、アスターは顔を伏せたまま言う。 「……ヴィンが、自分、だいじにしないの。わたしが、ちゃんと気付かなきゃ、いけなかった、のに」 震えたまま差し伸ばされたアスターの指先を彼は捕らえる。 「おまえは悪くない」 「分かってる……ヴィンセントだって、そういうんじゃないって、分かってるけど」 この期に及んで己を蔑ろにした訳ではないと、アスターだって解っている。それでも彼が傷を負ったこと、傷を放置したこと、気付かぬままでいた自分にも全部腹が立ってしょうがなかったのだ。 「ヴィンを、まもれないと、意味がない……!」 闘うこともあるから、負傷はまだ許せる。けれどそれ以上は。 「わたしの、一番はそれなの……」 彼女はいつも、物理的にも精神的にも彼を護ろうと懸命だが、ただ彼が好きだからと、その感情に付随してくる“護りたい”とは少し違うように感じた。 彼の微かな困惑に気付いたか、アスターが顔を上げた。魔晄色の瞳が、月明かりに浮かぶ。 「最初に、そう思ったから」 彼女を見返す瞳は翳っていたが、アスターはふっと表情を緩める。 「護る価値のあるひとだって、思った。こんな世界でも、ヴィンセントがいるから、ぜんぶ護ろうって」 「……私は……」 彼女の気持ちを素直に受け入れるのは少し難しかった。こんなことで傷付いてしまうほど、ひたむきな想いに相応しいとは思えない。 「わたしがそうしたい。それだけだよ」 苦々しく呻いた彼にアスターはいつも通り否定も肯定もせず、けれど穏やかな笑みを浮かべ小首を傾げた。 「ごめんね。帰ろ」 アスターが手を伸ばしてきたので、その身体を抱き上げた。 煌めく星空の下、夜の山道を危なげもなく歩いてゆくヴィンセントの腕に抱えられたまま、アスターがまた小さく笑う。 いつも過大評価されているような気もするのだが、彼がどうこうというよりただアスターが真っ直ぐなのだろう。彼女の気持ちそれ自体はよく解る。 憎んでいては決して目に映らなかった世界。混沌としながら美しいものも数限りなくある、護るに値し、生きゆくに値するこの世界を。 |