君の名は


 何に気を引かれているのか、ふらふらと落ち着きなく辺りを歩き回っている少女を、ヴィンセントは目で追っていた。
「──アスター」
 彼女はふっと顔を上げる。振り向く動作で髪がなびき、魔晄色の瞳に紅色を映す。声は、周囲の音に紛れるようなごく微かなものだったが、きちんと聞こえたらしい。
「アスター」
 もう少しはっきり繰り返せば、嬉しそうに駆け寄ってくる。均された地面でも転びそうな気がして、彼の方も距離を縮めた。
「なに?」
「おまえの、」
 沈むような声と、ほんの少し緊張を含んだ深紅の瞳を向けられ、それでもアスターはたじろがない。むしろ、どこか好奇心の見え隠れする瞳を向けてくる。
「……それは、本名か?」
 彼としては、些か訊きづらい、暗い過去に関わるような問いと思っていた。ほとんど孤児のように暮らし、その後も神羅のサンプルとして扱われていた彼女に“本来の名前”というものがあったかどうか。
 アスターはきょとんと彼を見返すだけだった。首を傾げる仕草は、答えに詰まっているのか、それとも話題の唐突さのせいだろうか。
「分からない。親がつけた名前だったかもしれないし、召還獣の方の名前かも」
「……本当の名は?」
 何故それを問うたか、彼自身にもよく解らないが。単に踏み込むことを許してもらいたいだけなのかもしれない。
「“アスター”」
 予想外の答えをけろっと口にしたアスターを、ヴィンセントは黙って見返す。彼女は楽しげに続けた。
「本名とか意味とか、誰が付けたとかどうでもいいの。
 覚えてるので、最初に呼んだのヴィンセントだよ。楽しかったときも、助けてくれたときも、そう呼んでくれたから。わたしはこれがいい」
 と満面の笑みで言う。今日も今日とて、この子の世界はヴィンセントを中心に回っているらしい。
 そうまで言われ、いくらでも呼んでやりたいと思ったが、逆に気恥ずかしくもあった。けれどしばしの沈黙も、彼女は気にしたふうもなく空を眺めていて、身構える気も失せたヴィンセントは口を開く。
 いつものように名前を呼べば、振り向いた少女は幸せそうに微笑う。




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