秋の夜長


 腕の中にいたアスターがもそもそと動き、浅い眠りで気付いたヴィンセントは目は開かぬまま意識を傾けた。
 彼女は緩慢な動作で彼の腕から逃れ、おそらく這うようにベッドから降りた。微かに床をきしませ出ていく足音も、どこか覚束ない。
 時刻は真夜中にも至らないだろう。彼としてはまだ寝入りばなで、アスターがいなくなった肌寒さで次第に目が冴えてゆく。すぐに戻ってくるだろうと体勢を変えぬまま待っていたのだが……そんな様子はない。
 不審に思ったヴィンセントは起き上がる。階下から聞こえる微かな物音に、上着を羽織って部屋を出た。


 アスターはキッチンにいるようだった。
 ドアを開ければ廊下より少し暖かい空気がふわりと流れる。明かりの点された見慣れた室内は、深夜の気配のせいで妙にこぢんまりとして見えた。
「あ……起きちゃった?」
 寝間着ではなくエプロン姿の少女が気付いて振り向き、軽く肩を落とした。
「やっぱり、こっそりはムリかぁ」
 テーブルに並べられた粉やら秤やらにようやくヴィンセントも状況を察したのだが、今さら見ぬふりもできなかった。些かうろたえながら、けれどいつもの無表情で立ち尽くすヴィンセントにアスターはちょっと笑って尋ねる。
「お茶、飲む?」
 寝室に一人で戻るのは気が進まなかったので、ありがたく申し出を受ける。彼が微かに頷くのを確かめ、アスターはケトルを火にかけた。それでまた少し暖かくなった部屋の隅のソファに、ヴィンセントは陣取る。
 アスターはお茶の支度を済ませると、さっそく作業に取り掛かる。寡黙な彼の視線を気にするでもなく、広げたレシピ本を時折覗き込みながら手を動かしていた。深夜に気を遣うべきご近所などはないものの、静寂を尊重するようにどこか慎重な手つき。
「なんか、変な感じだね」
 こんな真夜中に料理などしたことがない。寝ずにいることもあるが、大概は寝室だ。
「でも……わくわくするかな。何もないんだけど」
 独り言のように、笑みを含む声で言う。
 ふと、ちらりと時計に目を走らせたアスターが顔を上げた。テーブルと椅子とを隔てた距離からヴィンセントの瞳を見つめているが、手はボウルの中身をせっせと混ぜている。
「ごめんね。今ちょっと、手、離せないんだけどね」
 いつものように、毎年のように、へらりと幸せそうに笑んだ。
「誕生日、おめでとう。ヴィンセント」
 真っすぐにアスターの瞳を見返したまま幾度か瞬いたヴィンセントは、立ち上がり彼女の隣までやってくる。
「も、手、離せないって」
 慌ててボウルを卓上の安全な位置に避難させた。粉だらけの手では押し退けることもできず、アスターがちょっと仰け反って距離を取ったが、ヴィンセントはものともせずに腰を引き寄せる。
 紅潮した頬にかかった髪を指の背でそっと払えば、アスターはおずおずと顔を上げる。何か言うつもりだったか、震えた唇に誘われるままヴィンセントは背を屈めた。
「ん……、っ……」
 触れて、舌先で促せば少し躊躇ってからそれを受け入れる。照れが先立ってか今日は消極的だが、それもまた可愛いと思う。
 しばらくの間、柔らかく唇を交わしていたが、アスターの膝が崩れそうなのを感じ顔を離した。艶やかに細められた眼差しに耐えられなかったか、アスターはうつむく。
「……服、背中汚しちゃった」
 すっかり茹ってしまったアスターが顔を伏せたまま言った。むしろ少しいい気分でヴィンセントは腕を解いた。物足りないが、多分、後で続きを許してくれるだろう。
 アスターは中断させられた作業をなんとか終わらせ、旧式のオーブンに後を任せて、またソファに戻っていたヴィンセントの隣に落ち着いた。
 しばらくして漂ってきた甘い匂いで酔ったのか、それとも眠気で変なテンションになったか、へにゃへにゃと笑いながらヴィンセントに擦り寄るアスター。カップが傾かないように手を添えながら、彼は少女を抱き留めた。
「ヴィン、甘すぎない? ここにいて平気?」
「……夢に見そうだ」
 嫌ではないがとにかく甘い。この匂いだけで紅茶が何杯か飲めそうだった。
「いい夢じゃない」
 声を立てて笑った少女の指摘に、ヴィンセントも笑う。
「そうだな」
 言い切って微笑を浮かべるヴィンセントを見上げ、アスターは満足げに息をついて目を閉じた。




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