しあわせなお伽話であってほしかった
「今日もいい天気だわ」
両手を天に伸ばして力をいれた。うーん、と背伸びをすると、ふうっと息がこぼれて仰ぎ見た空の青さに目を細める。
「素敵な天気。ヤーコプ兄さんがだいすきな青空ね」
想いをはせるその人物は、透きとおる晴天の下でいつもいろんなお伽話を聞かせてくれた。やさしいお話やすこし残酷なお話を、低くてよく通る声で紡いでくれて、わたしはそのお話を聞くのがとてもだいすきだった。
ヤーコプ兄さんのお話は世界一ね!と言えば、お前に聞かせるものだからだよ、と笑ってくれたのを覚えている。
「いろんなお話を聞かせてくれたわよね、こんなお天気の日は。ヤーコプ兄さんはたくさんのお伽話を聞かせてくれるから、夢中になって時間がすぎるのもわすれて…」
そして日没になってヴィルヘルム兄さんがやさしく「ふたりとも、もう夕ご飯だよ」って迎えにきて。ルートヴィッヒがあきれた顔で「お前、いつまでもヤーコプ兄さんに甘えすぎなんだよ」ってぼやいてた。
「お伽話を聞く間は、わたしがヤーコプ兄さんをひとりじめできるのがうれしくて、夕ご飯は楽しみだけど朗読の時間が終わるのは寂しかったわ」
ページをめくるようにぱらぱらとおもいだす記憶は、いつだってやさしい物語のようにあたたかい。未来になんの不安もなかった、無邪気な思い出。
「でも兄さんは、わたしがそんなことを考えてるのがわかってるみたいに笑うのよね。今度はもっと素敵な話を聞かせてあげるよって」
青空を見上げて、とどまることなく紡がれる思い出は、もう戻ってくることのないひとを忘れないためのもの。
わたしのだいすきな、兄さん。
「ねえ、兄さん」
おもいだして、言葉を紡ぐたびに声がふるえる。のどが焼け付いたように酷く痛くて、ほんとうは音を出すだけでも焼けきってしまいそう。
それでも思い出を語ることを止めたくはなかった。忘れたくないもの。
「わたし、もっともっと、兄さんのお話がききたかった、わ、」
泣かないと約束したの。だから涙は流さない。こらえるように、今はおろした両手が抱えている魔法書をぎゅうっと抱きしめた。
「にい、さん、っ」
貴方がいない世界は、貴方がいたときと変わらずうつくしい。仰ぎ見る空はいつだって目が眩むような青空でわたしを見下ろしてくる。
いつも兄さんがお伽話をきかせてくれた青空は、兄さんがいなくてもきれいなスカイブルーで、約束したのに泣きたくなった。
「っ、やっぱり、兄さんが、いない、結末のお話なんてっ、」
声が嗚咽にかわるのがわかる。泣いちゃだめ、と奥歯をかみしめて吐き出した息は熱を帯びて空気に溶けた。
「わたしはっ、いらなかったよ…っ!」
やわらかにゆれる銀の髪や、低くて安心する声、厳しい瞳のなかに浮かぶやさしさに、あえない、ことが、もう二度と、兄さんの創るお伽話がきけない、ことが、とても痛い。
(いらな、かっ、た…!)
貴方の犠牲のうえに輝いたこの楽園も。
(わたしは、兄さんがいれば、それで良かったのに…っ)
(そうわがままを言ったら兄さんは怒るかしら。いいえ、困ったように笑うかもしれない)
どっちにせよ、もう貴方はいない
貴方のいない楽園の終末
title by≫水葬