放課後、誰もいない教室は異空間の香りを放っていると思う。何故かひどく感傷的になって些細なことが大きな黒い塊となって心に重くのしかかる。わたしはこれを密かに『放課後マジック』と呼んでいる。ため息を一つこぼし、原因となっている薄っぺらい用紙に目を向けまるで汚れものを扱うように摘んだ。持ち上げたそれは少しざらりとした感触と若干の繊維質な見た目で再利用紙と予想がつく。ちがう、問題はそんなことではない。紙の質なんて関係ない!
少し掠れているくせに、黒のインクは『進路調査票』とはっきり印字されている。
高校生最後の夏。わたしたちの新たな進路を決定させる大事な時期。こんな大変な時にこうも無気力が抜けないとは、わたしは一体どうしてしまったんだろう。


「まじで……どうしようもない…」


小さく言葉を吐いたところで状況は何も変わらない。担任のから今日中に提出するように、と強めに念を押されバックれることも出来ない。今日に限ってバイトは入ってないし、部活はもう引退してしまった。最も文化部の中でもゆるいものだったので特に関係ないのだけれど。既に出してあるシャーペンをくるりと手の中で回す。そう言えば、ペン回し…とっても流行ったなぁ。最初はあらぬ方向に飛ばしていたのだが今はそれなりに操れるようになった。教えてくれたのは、同い歳の幼馴染み。


「なまえ」
「佳典」
「ちゃんと残ってたんだな。担任、早く出せって怒ってたぜ」
「分かってるよー…」


開けっ放しの扉から現れた幼馴染みはからかうように笑ってわたしの座る席まで歩いてきた。背の高いこと…中学生の頃は同じくらいだったのに、懐かしい思い出に少しだけふける。しかし担任の野郎、まさか佳典に告げ口するとは…。昔からわたしはこの幼馴染みの言うことには逆らえない。と言うより佳典の言うことはだいたい正論だし、わたしがどうでも良い様なことで悩んでいる時だからだ。でもそういう時の佳典の言葉は不思議と簡単に心に落ちて、いつも解決していたように思う。だが今回ばかりはそうもいかないぞ。佳典から視線を外してまた紙とにらめっこをする。何せ相手は進路調査票だ、進路は自分で決めろと言われてもこの有様だ。誰かこの難攻不落の空欄を埋めてくれ。占い師とか、預言者とか他力本願が過ぎる馬鹿らしい考えがどんどん脳内を占めていく。あぁやだ、心が重い。そんな簡単に決めれるのなら、誰も苦労しない。ガタン、椅子が動く音がした。特に気にする事でもない目線は紙のまま、佳典が前の席に座ったのだ。証拠に角張った長い人差し指が憎らしい紙の上に置かれる。久々に見たけど、綺麗な爪の形だね。


「煮詰まってるんだな、だいぶ」
「んー…」
「名前、書き忘れてるぞ」
「えっ?…あっ本当だ…気が付かんかった」


随分長い間にらめっこしていたが、そんな初歩的な事を忘れるくらい悩んでいたのだろうか。ようやく仕事をしたシャーペンは意気揚々とわたしの名前を紙に記した。忘れていた事に少しだけ焦って2回ほど芯を折った。そうして流れのまま書く事ができれば良いのに、心の内で燻る何かのせいでわたしは空欄を埋めることが出来ない。


「書かないのか?」
「書けないの」
「もう決まってるんだろう」
「決まってないから書けないの」
「逃げるなよ」


久々に聞く責めるような口調に驚いて顔を上げれると鋭い目がわたしを見つめていた。それは佳典が怒る時に、わたしがまちがっている時に見る少しだけ怖い目。視線を外せないし睨み返す事も出来ない。逃げてなんかない、そう口にすれば良いのに言葉が出ないのは正解だから。でも認めたくなくて、意地からようやくわたしは佳典を睨み返した。シャーペンを持つ手に力が入る。


「ちがうよ、ほんとうに決まってないの」
「…なんで嘘をつくんだ」
「ついてない」
「大体お前が悩んでる時はな、もう答えは決まってるんだよ」
「そんなこと、」
「結果が怖いんだろう」
「…っ」
「背中を押してほしい」


佳典の方がわたしのことずっとよく分かっている。本当にそうだ。悩んでいる時はだいたい答えがちゃんとあって、あとは踏み出すだけなのに怖いから、もし失敗したらって考えると進めない。あと一歩を足踏みしてしまう。それが理由で何も決められなかった幼い時、いつも泣いていたわたしの隣にいてくれたのは佳典だった。『こわくないよ、おれがいる』『ずっとそばにいるから』子供の小さな口約束をわたしは今でも信じている。だから佳典の後押しでわたしは今まで進んでこれたんだ。そんな性格をわたしも分かっていたし、佳典も何も言わなかった。だから面と向かって事実を突きつけられた今、まるで突き放されたように感じた。心に余裕が持てなくなる。佳典の目、静寂と二人だけの教室という空間がわたしを追い詰める。


「きめたら、もう、佳典は背中を押してくれなくなるじゃん」
「そんな事ない」
「ある」
「何を根拠に言ってるんだよ」
「ずっとそばにいるからって、言ってくれた」
「! おまえ、覚えて」
「だから今までこれたのに…佳典とはなれたら、わたし…前に進めない…!」



言い切って、自分の吐いた言葉の意味を理解して涙をこらえるために視線を外した。歪む視界に元凶である紙が白くぼやける。馬鹿らしい事だって分かってる。いつまでも佳典の後押しを待ってちゃだめだって、自分の事くらい自分で決めなきゃいけないってことも。でも何も決められなかった幼い頃のわたしが佳典の存在にどれだけ助けられたか、あの時の約束がどれだけ支えになったか。佳典は覚えていなくても、わたしにとっては大切な約束だから今更切り離せない。わたしの人生から佳典がいなくなるなんて考えられない。そこまで考えれば、耐えてるものも耐えられなくなって下を向いていたわたしは遂に涙を零した。進路調査票の文字の上にポタポタと落ちてはシミを作る。


「離れるわけないだろ」


優しい佳典の声とその意味に、理解するのが遅れて顔を上げるタイミングを失った。大きくてあったかい手が頬に触れ輪郭をなぞり頭を優しく撫でる。その手つきに心が緩んで嗚咽と共に涙は留まる事無く下に落ちていく。だめだ、顔あげれない。頬に伝う涙を拭うために両手で顔を覆おうとすると頭を撫でてくれていた佳典の手がそれを遮るようにわたしの頬を包む。そのまま上を向かされて否が応でも目線が合う。優しい目だ。わたしが好きな佳典の目。


「や、だぁっ…ぐずっ、う…いま…かお、だめ…うっ」
「ははっ!本当だ、すごいブス」
「う"ぅぅ〜」
「なまえと離れるわけないだろう。俺だって、……」
「ぐすっ、…なぁに?」


何かを言いかけた佳典は一旦視線を外す。何かを考えるような少しと戸惑いが含まれた目の色に首を傾げているとこほんと、咳払いをして向き直った。夕焼けの幻想的な光が佳典の表情を読めなくする。ただでさえ涙でぼやけている視界に、もはや佳典は輪郭だけを残すのみ。


「離れないから、離れるなよ」
「…」
「返事」
「うっ、ふふっ、はぁい」
「…分かったら早く泣き止めよ」
「うん」


その後、中々泣き止まないわたしの頭をずっと撫でてくれた佳典に急かされてようやく進路調査票に希望を書くことが出来た。やっぱり決まってたんじゃないか、って茶化すから机に置かれたままだった佳典の手にシャーペンを指した。仕返しにほっぺを引っ張られた。佳典の手はでかいから痛い。


「じゃ、提出して帰るか」
「うん」


机にかかった鞄を持ち、窓から外を見れば夕焼けはもう下りに差し掛かっていて夜の空との狭間が見える。オレンジ色と青色と黒色、織り交ざった不思議な色が教室を照らしている。佳典が行くぞ、といつの間に移動したのか扉に背を預けて立っていた。なるほど、だから暗く感じたのかな。だから佳典の後ろ姿がいつもより大きく見えてるのかな。やっと止まった涙がまた出てきそうになるのをぐっと堪えて待っている佳典の元まで小走りした。隣に並んで優しく取られた手は相変わらずあったかくて、好き。

「佳典、すき」
「…ん」
「えへへ」
「…なまえ」
「んー?」
「………すき」
「!!!」
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