気持ちを通い合わせるのに、時間はそんなに必要ないということを、私はジークフリートに身を以て教わった。これは一つの恋の覚書である。叶うことのなかった、けれど破られることもなかった、初恋のエピタフである。

木漏れ日がさした。遠くで鳥が鳴いている。時間があまりにも穏やかに流れるので、今が人理修復の最中であることなど、都合良く忘れてしまいそうだ。繊細な風が隣を歩くジークフリートの銀髪を揺らす。一枚の絵画に閉じ込めてしまいたくなるような光景だ。
事実、この状況は奇跡だった。聖杯戦争に関係の無いマスターというのは稀だし、誰に召喚された訳でもない英霊というのも奇例だ。その二つが巡り合い、手を組んでいるなんて、異常事態としか言い様がない。ただし、森の中で雑談に興じる我々は必要以上の緊張感とは無縁であった。イレギュラーも慣れれば日常だ。
竜殺しとして名高いジークフリートと合流してから、もうどのくらい経つだろう。ファブニールの捜索が、まさかこれほどまでに難航しようとは。最初は自分は本調子ではないからと、やや消極的だったジークフリートも、今では殺意高く邪竜を追っている。バルムンクが血を求めている訳ではなさそうだが。当初は一丸となって行っていた聞き込みも、今では何組かに手分けをしているが、有益な情報はない。魔道に堕ちた聖処女たちも行方をくらませたままだ。
つまり我々は暗礁に乗り上げている状態だが、私はそう悲愴な気分ではなかった。間違っても口には出せないが、なんだったらしばらくこのままでも良いくらいである。自らの肩にかかる人類史という重圧に、私はすっかり参っていた。そんな中で、目的を持って動いているにもかかわらず成果が上がっていないという現状は、逃避にぴったりである。だが、この責務を放棄してもいいと思えるほど、私は人類に絶望していない。全力は尽くすつもりだ。この力が及ばなくても。
それでもたまに、このままでいたいと願ってしまうのは、私もまた年頃の小娘に過ぎないということの証明だ。
「それで…?」
「ん?」
「君の家の変わった教えの話だろう?」
ジークフリートは真摯な様子で、閑話の続きを促してくる。その横顔に見蕩れていたとは言えず、私は慌てて見失っていた論旨を探す。
「ええ、そうね…変わっているというか、あまり他では聞かない家訓ってだけなんだけど…」
基本的に魔術は血の繋がりを通じて系譜と共に受け継がれていることが多い。だから、どこも秘密主義だ。もしかしたらうちの家訓だって、私が知らないだけで別段珍しくないのかもしれない。これは雑談なのだから、別にそれでもいいだろうとタカを括って続ける。
「自分に嘘をつくな…って教えられるの」
逆説的に言えば他人にはどれほど嘘を吐いても構わないということで、こう言い換えればとても魔術師っぽい。ただ、己を偽るなと言い含める。人は自らを偽れるほど強くはないからと。同族の大人たちが言外に込めた教えを、私はまだ察せずにいる。
「それは…簡単なようでいて、難しい…のか?」
ジークフリートはその形の良い眉を下げた。如何様にも解釈できるので、家人も頭を悩ませている。
「私は難しいと思うわ」
そもそも当家は比較的新しい血族である。だから、こんなにふんわりとした教えなのだろう。古い名家の教えはもっと厳しい筈だ。現代の魔術師には傑物がいない。高名な者たちは競って歴史に名を連ね、英霊としての降臨を待つばかりである。
「弱い者は自分を誤魔化しながら生きているし、強い者は存外自分を知らない者だから…」
要するに自分の心に正直でいられる人間なんて、いないのではないだろうか。
誰もが理性の柵の中で生きているし、己の欲望だけを優先させるなら、それはずでに獣だ。…そのほうがウィザードらしい気もするが。
「だから人は願いを持つのだろうか…?」
ジークフリートは彼なりに思うところがあるらしく、憂いたっぷりに目を伏せた。私はその翳りに胸を痛めて、そうっと手をとった。自分の思うままに行動するのは、実はとても勇気のいることだった。
「あなたにも叶えたい願いがある?」
聖杯戦争を意識しながら尋ねた。ここではない何処かの物語。ジークフリートは寂しく笑った。
「俺に望むものは特にない」
彼が生前他人の願いを成就させ続ける道を選んだことを、私は知識として知っている。そこに実感は伴わなかったが、彼の抱える途方もないものを理解したいとは思った。
「じゃあ、いつかあなたが自分の望みに気付いたら、私に教えてね」
この特異点を抜ければ、二度と逢うことは叶わないだろう。それこそ、もう一度、歪な奇跡が起こらなければ。わかりきっているのに、私は続きの夢を魅ることに決めた。いつか、と口にすることで、定まることの無い約束を交わそうとする。
「俺は自分の望みに気付いていないのだろうか?」
「言ったでしょう?…英雄は自分を知らないものよ」
そして私は自分を誤魔化しながら生きている。不確定な未来じゃなくて、今すぐジークフリートに縋りついてしまえば、もっとずっと正しいかたちでこの恋に止めを刺してやれたのかもしれない。

斯くて世界は救済された。私はその後も人理継続保障機関に身を置き、人類の経過を見守る道を選んだ。人理修復後の私の生は晩年に過ぎず、目まぐるしいことは起こらぬまま密やかに幕を閉じた。たった一時行動を共にしただけの、大英雄のことをよく思い出す。もう一度彼に逢いたかった。それだけが私の願いだった。穏やかな余生。
一つだけ誤算があったとすれば、世間が私を救世主として扱いたがったことだった。勿論、公にはなっていないので、人知れない界隈でのみだが。英雄の条件を満たすにはそれで十分だったらしい。人間としての私は死んで、一度霧散した意識はサルベージされた。再構築された私はあの頃と同じ小娘の姿で、俗に言う座に就くこととなった。自分がサーヴァントとして誰かに仕える日が来るなんて、夢にも思わなかったが、案外悪くない気分だった。結局のところ私も俗な魔術師に過ぎない。
「困ったなぁ、聖杯を獲る前に願いが叶っちゃったみたい」
大剣を携えて、銀の防具を纏って、鬣のような長髪を靡かせて、セイバーが歩いてくる。
「…そうか、君もそうなったのか、キャスター」
私を見て、眩しげに目を細める。敵同士だというのに、そこには懐かしさと信愛が惜しみなく込められている。私は年甲斐もなく頬を染めた。英霊といっても数が多いから、同じ聖杯戦争に召喚されるなんて、かなりの低確率だろう。そういう意味で、これは二度目の奇跡だ。或いは運命の悪戯かも。
「逢いたかった」
生という制約から解き放たれた私という存在は、あの頃より余程自由である。あれからどれ程の時が流れたのだろう。やっと、自分に嘘を吐かずに済んだ。私は彼に逢いたかった。それ以外の感情は知らない。欲望の赴くままに駆け出す。ジークフリートは私を抱きとめてくれた。
「俺の望みは…」
約束を果たそうとする律儀なジークフリートの言葉を、キスで攫った。逃がさないように首にしがみついて、動きを封じてしまう。彼が漸く辿り着いた願望に、興味がない訳ではなかったが、いつかそれを教えてもらうという約定を果たしてしまえば、これで最期になるような気がした。これっきりもう逢えなくなるような予感。人はそういった詰まらない理に知らぬ間に縛られていたりする。
「それはあなたが大事にもっておくといいよ、ジークフリート」
そうでなくても願いなんて個人的なもの、一緒には背負ってあげられないから。とりあえず、此度の聖杯に望むといい。勝ち進むために、私が邪魔なら何度だって死んであげる。
「…君は聖杯に何を望む?」
「わからない。考えたこともない。あなたと逢えるなら他に何もいらない」
私が英霊と化したのは、もしかしたら叶うことのない偽りなきこの恋の為かもしれない。だって、こうでもしなくちゃ、再会なんてできなかった。同じものにならなければ、口付けさえ交わせなかった。恋は儚い。人生は短い。けれど私は永遠を手に入れた。確かに。
「人類を救ったんだから、このくらいのご褒美はあってもいいと思わない?」
私は已然大真面目だったけれど、冗談だと思ったのか、ジークフリートは小さく笑った。
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