夏至。払暁。
 ほとんど眠れないまま夜が明けようとしている。
 つい先日、この世で最も美しい刀が私の前に姿を現した。以来、眠れない。これはたぶん愛執だ。布団に潜っても頭に浮かぶのは三日月宗近の顔ばかり。枕を抱きしめ輾転するうち朝が来る。そして寝室の襖が静かに開き、東雲を背に彼が笑う。

「おはよう」

 今日も三日月宗近は私を起こしに来た。近侍でもないのに。

「眠れないのか」

 彼が言った。

「ずいぶん早起きだね」

 私は答えた。
 すると彼は笑った。

「年寄りが早起きするのはおかしいか?」

 刀剣なんてみんな年寄りだろうに。彼のように麗しい青年の顔をした刀剣がこの本丸には沢山いるが、彼らはあまりにも長い時を生きてきた連中だ。私みたく二十年生きたか生きてないかくらいの女なんて、彼らにとっては赤ん坊と同じに見えるだろう。

「毎朝毎朝、起こしに来るけど、そんなに主人の寝坊が心配?」
「別に俺は主の朝寝など気にしない。それより主の不眠が気がかりだ」
「三日月宗近が起こしに来るからぐっすり眠れないんだよ」

 嘘ではない。毎朝、好きな人が寝室まで起こしに来てくれるなんて、そんなの緊張して眠れるわけないじゃないか。

「ふむ。では俺が起こしに来なければいいのか?」

 それはそれで嫌だけど、とは言えず、私は無言で頷いた。今、きっと私は審神者として超模範的な態度をとったに違いない。ここで私情にとらわれるような女は審神者なんて辞めちまえと思う。
 審神者は、国のための大役を政府から仰せつかって戦争をしている身分なのだ。仕事以外の面倒事、例えば恋とか愛とかしょうもない事柄にうつつを抜かす暇などない。
 ……いや、実際のところ、世間では私情にとらわれる審神者の方が多いと聞く。中には祝言を挙げるさもしい者までいるとか。

「……あいわかった。主がそう言うなら、もう起こしに来るのはやめよう」

 三日月宗近はいつも通りの薄い笑顔を浮かべ、そっと襖を閉めると、私の寝室から去っていった。
 彼の気配が遠ざかってから思わず長大息する。三日月宗近の相手をするのは疲れる。私が彼に抱く邪な感情を抑えつけるのも、彼が私にかける甘い言葉を躱すのも、言葉にできないほど疲れるのだ。
 政府から審神者の仕事を課せられた時、名誉ある役目を言い渡されたものだと大喜びしたが、それも一時のぬか喜びというやつで、今では審神者がいかに過酷な職業かを身にしみて感じている。


□□□


 立秋。暮れ六つ。
 近侍のへし切長谷部は仕事ができる男だ。というか、仕事ができるから近侍にしたと言ってもいい。
 執務室は書類で溢れているが、それらの事務作業を処理するのはいつも私ではなくへし切長谷部であり、執務室にいる時間は私より彼の方が断然多い。
 今日も彼は日暮れまで執務室にこもって仕事ばかりしているようだった。そんな彼に何もしてやらないほど、私は恩知らずではない。淹れたての茶を二人分持って執務室を訪れ、「お疲れ様」と声をかける。すると、へし切長谷部は走らせていた筆を停止させ、私を見て凛々しく笑った。

「主。お疲れ様です。今日の夕刊ですよ」

 彼はサッと紙の束を差し出した。私は本当に活字が苦手なので新聞の管理まで彼に任せているが、一応、大きい見出しくらいは目を通すようにしている。
 しかし審神者に渡される新聞なんていつもいつも同じ内容だ。今日も一面に取り上げられているのは審神者と刀剣の駆け落ちないし情死の話ばかり。世の中ではこういった愚かな事件が絶え間なく起こっている。審神者の使命から逃げ出して色恋にかまける女や、主へ心酔するあまりモノとしての本質を見失う刀剣たちが、私は嫌いだ。たぶん、心の奥底ではそんなふうに自由に生きてみたいと望む自分がいて、だからこそ嫉妬にも似た嫌悪を抱いているだけなのだが。

「またこんなしょうもないニュースばかり」

 私は新聞をピシャリと投げ捨てながら呟いた。

「しょうもないと思いますか?」

 投げ捨てられた新聞を拾いながら、へし切長谷部が問いかけてくる。

「勿論。刀剣と審神者の無益な色恋なんて興味ないし」

 私は即座に答えた。私の審神者としての立場を明確にするために。

「そうですか。……主は本当に……」
「本当に……何?つまらない女だって?」
「そ、そんなこと言ってません!」

 へどもどするへし切長谷部を見て私は軽快に笑う。彼のように馬鹿真面目な刀剣をいじめるのは楽しい。
 へし切長谷部は羞恥を誤魔化すようにズズッとお茶を啜った。二人きりの狭い執務室には、茶葉の馥郁たる香りが充満していた。


□□□


 白露。午下。
 自室でくつろいでいた時、とみに部屋の襖が開き、私の代わりに執務室で仕事をしているはずのへし切長谷部が片手に何か握りながら不安そうな顔でやってきた。

「主、いきなりすみません。あの……部屋に変なものが落ちていたのですが……これはなんですか?」

 私は彼が突然現れたので少々面食らいながらも、その手に握られたものを見て冷静に答える。

「鉛筆だよ。見たことない?」
「ないです」

 彼は握った鉛筆を物珍しげに見つめた。それは私が現代から持ってきた文房具だが、審神者として本丸に来たばかりの頃、執務室に置きっぱなしにしてそのまま放置していたものだ。いつのまにか数多くの書類や新聞に埋もれてしまったそれを、つい先程、彼が掘り出したらしい。

「では、これは?」

 彼は鉛筆のそばに落ちていたという白い塊を出して見せた。

「それは消しゴムっていって、鉛筆で書いたものならなんでも消せる道具」
「なんでも?」
「なんでも」

 私が説明すると、へし切長谷部は驚きを隠せない顔でまじまじとそれらを眺めていた。

「大したものじゃないよ。現代ならどこでも売ってるし。……それにしてもこの鉛筆と消しゴム、なくしたと思ってたんだよ。見つけてくれてありがとう」

 そう言いながら、私はへし切長谷部から鉛筆と消しゴムを受け取る。彼はしばらく名残惜しそうに私の手元を眺めていたが、私が「要件はこれだけ?」と尋ねるとハッとした様子で頷き、軽く挨拶してから執務室へ帰っていった。

「……………もう出てもいいか?」

 へし切長谷部がいなくなり、部屋の襖を閉めたその時、押入れから三日月宗近が大儀そうに声を出した。そして私が「いいよ」と言い終わらないうちに彼は押入れを出て、「狭いところで縮こまると腰にくる……」などとぶつくさ言い、肩や腰をさする。言動が完全に老人である。
 へし切長谷部が部屋に入ってくる直前まで、別に何をしていたわけでもないが、三日月宗近とのんびり談笑していた。そこに突然、近侍がやってきたものだから、私はとっさに三日月宗近を押入れへ押し込んでしまったのだった。

「別に隠れる必要などないと俺は思うが」
「あのねぇ……私が自分の部屋に刀剣を入れない性格の審神者だってことくらい、本丸の誰もが知ってるんだよ。私が刀剣と深く関わることを嫌う性格だってことも。近侍だって、好きとか気に入ってるとかそういう個人的な理由を抜きにして選んでるんだから。それなのに私の部屋に三日月宗近がいたら色々おかしいでしょ」
「しかし現に今、主は俺を部屋に入れているが?」
「それは三日月宗近がしつこいから仕方なく」

 私の適当な説明を受けると、彼は相変わらず思考の読めない笑みを浮かべて「仕方なくか」と答えた。
 毎朝起こしに来なくなった彼は、そのかわり、日が暮れるまでに必ず私の部屋を訪れる。彼曰く「一日一回は主と二人きりで過ごしたい」とのこと。 そんな彼の態度に翻弄される自分が憎らしい。
 彼は私を主人として敬愛しているのだろうか。それとも、神である自分より下等な人間たる審神者を遊び道具にしているだけなのだろうか。三日月宗近は、顔では笑っていても内々では何を考えているか分からない。だからこそ知りたい。彼がどういうつもりで私に接しているのか。
 彼の意図を知るためにも、私は三日月宗近を追い払わない。彼が私の部屋を訪れれば、素直に入れてやる。同じ部屋の中にいても、彼は大抵、私とお喋りしたり、本を読んでいる私を黙って見つめたり、はたまた私を無視してうたた寝したりする。その気まぐれな挙動は余計に彼の本心を見えなくさせていた。

「ところで主。最前へし切長谷部が持ってきたモノは何だ?」
「鉛筆と消しゴムだってば。見たことない?」
「えんぴつ?けしごむ?見たことも聞いたこともないな」

 珍しいものを見るように現代の文房具を見つめる三日月宗近は、やっぱり老人みたいにゆったりした態度だが、目だけはこどものように輝いていた。そんな目をされたら使って見せてやりたくなる。
 私は紙に思いついた文字を書いた。それを見て三日月宗近が首を傾げる。

「月が綺麗ですね、とは?」
「特に意味は無いよ。適当に書いただけ。それより、見てて」

 私は消しゴムで「月が綺麗ですね」をゴシゴシ擦る。すると文字が消え、真っ白な紙だけが残った。

「おお……これがけしごむというものか。本当になんでも消せるのだな」

 彼は素直に一驚した様子で消しゴムに見入っていた。どうやら私が書いた適当な文字の意味、すなわち隠微な恋の万感には気づかなかったらしい。三日月宗近が近現代の日本語に疎くて良かったと思う。
 私が書いた無益な愛の告白はもう跡形もなく消え去っていて、残った紙にはもう何も書かれていない。けれどやっぱり、胸の奥底に芽生えてしまった淡き夏の眷恋だけは消えてくれない。こんな思いをするなら審神者など成りたくなかった。この消しゴムがなんでも消す事のできる消しゴムなら良かったのに。三日月宗近への恋慕を消しされればどんなに心が救われるだろう。
 政府もずいぶん非道だ。審神者と刀剣の恋愛を禁じていないなんて。いっそ禁止されていた方が悩まずに済むのに。
 先々のことを考えれば、審神者と刀剣が傾慕し合うほど不毛なことはない。刀剣が人間の真似事をしたところでいつか必ず齟齬が生じる。祝言なんぞ、一時の幸福だ。
 刀剣と結婚した審神者は、人の一生という短くも長い時間を刀のそばで過ごしてつらくないのだろうか。私だったらきっと耐えられない。いつまでも見目麗しい男の横で自分だけ老いていくなんて……そんなの地獄だ。

「それはそうと、主が書いた月というのは俺のことか?」
「えっ」

 すっかり考え事に耽っていた私は、三日月宗近の一言で一瞬にして現実に呼び戻された。

「違うのか?随分と婉曲的に褒められたものだと思ってしまったが……」
「ち、違うよ。本当に深い意味はないの」
「はて、どうだか」
「本当だってば」

 私はできるだけ冷静に誤魔化そうとしたが、三日月宗近は「皆まで言うな」という顔で私の言葉を無視して笑った。

「俺は主の考えていることくらい、容易く推測できるぞ。主はわかりやすいからな。そんなところが愛らしくて気に入っている」
「え、な、……はぁ?」

 思わず声にならない声が口をついて出た。すると彼は「はっはっは」とさも愉快そうに笑い、続けて謝った。

「すまんすまん。つい本音が漏れてしまった。主はこういうのを嫌がるとわかっているのだが」

 三日月宗近の「愛らしくて気に入っている」発言にすっかり思考回路が機能停止していた私は、彼が困り顔で呟いたその言葉にハッとした。彼の魅力に惑わされて危うく自分の信念を忘れるところだった。

「そ……そうだよ、私はそういうのが嫌いなの。だから茶化すのはやめて」
「あいわかった」

 私がキッパリ断ると、三日月宗近は幽艷な仕草で心得顔に頷いた。


□□□


 秋分。薄暮。
 今日も私の部屋を訪れた三日月宗近は、襖越しに黄昏の微かな光を浴びてうたた寝している。彼は先程まで戦場に出ていたので、疲れているに違いなかった。

「眠いの?」

 私は船を漕いでいる三日月宗近に声をかけた。すると彼はやおら瞼を開け、半分眠っているような声で答えた。

「眠くないと言えば嘘になる」

「じゃあ自分の部屋に帰って寝ればいいのに」と、言いかけた私の言葉を遮って、彼は続けた。

「しかし今は主のそばにいたい気分なのでな」

 三日月宗近は平気でこういうことを言ってみせる。しかも、彼の台詞に少なからず動揺する私を見て愉快そうに微笑するのでタチが悪い。
 私はやっぱり「彼は私で遊んでいるのかな」と思ったりもするのだけれど、

「なんならこの部屋で主と共に休むことだってできるぞ」

なんて言いながら私の髪の毛に触れてくる彼の手つきがとてもふざけているとは思えなくて、私は狼狽せずにいられないのだ。

「気安く触らないでってば」
「俺は主と気安い仲になりたいのだがなぁ……」
「またそういうこと言って」
「からかっているわけではないぞ?」

 三日月宗近はつと、私の目をまっすぐ見て真剣な語調になる。そして、すっかり日が沈んで暗くなった部屋で三日月宗近の白く美しい顔が近づいてきたかと思うと、彼は私の耳ともに唇を寄せて呟いた。

「やはり主は、俺が人間の男ではなく刀だから嫌なのか」

 瞬間、私の中で激しい葛藤が湧き上がった。私にはもう三日月宗近の意図が理解できてしまった。彼は私を遊び道具にしているわけではなかった。そして主人として敬愛しているわけでもなかった。彼が私に抱いているのは真個の愛なのだ。人間の男が人間の女に向けるそれと毫も変わらない、純粋な異性間の愛。
 どうしたらいいのかわからなくなった私は、最後の自制心を必死に搾り出し、彼を追い払おうと躍起になる。

「違うよ。刀剣はどいつもこいつも老いぼれだから嫌なの。それより老人はもうこの時間になると眠いでしょ?自分の部屋に帰れば?」

 そう言って三日月宗近の胸を突き放すように押しのけると、彼は老成の余裕に満ちた微笑で答えた。

「ふむ。確かに俺はじじいだが、主を想う気持ちは若い衆にも負けず劣らずだと思っている。……しかし主が俺に出ていってほしいなら、俺はもう自分の寝床へ帰ろう」

 そう呟いた三日月宗近は、襖越しに鈍く光る無数の星を見上げてあくびをし、よっこらせと腰を上げた。そんな彼の些細な仕草一つ一つに見入る自分がいる。いや、彼だってそのつもりで自分の麗しさを私に見せつけているとしか思えない。こすい。けれど、好きだ。たまらなく好き。
 どんなに打ち消してもこの気持ちは消せない。そのことに気づくのにひと夏を要した。そして、審神者の務めを捨てて刀剣と恋する女の気持ちがようやく本当の意味で理解できた。
 刀剣を想うだけならいくらでも自制がきく。けれど想われてしまえばもう抗いようがない。
 立ち上がって自分の寝床へ帰ろうとした三日月宗近が、月を背にしてやんわり微笑んで囁く。

「ああ、これだけは言っておくが……主がどんな態度をとろうと、俺は主の気持ちを尊重するぞ。ではおやすみ、主」

 つくづくずるいと思った。彼の発言は明らかに私の翻意を誘っていた。私はわけもなく泣きたくなった。今ここで道を踏み外せば二度と戻れない。たとえ誰かにこの姦邪を糾弾されようとも。
 人間の男と恋をすることも、愛した人と共に老いて死にゆくことも、おそらく永遠にできなくなる。いつまでも美しい三日月宗近に溺れながら私は死ぬまでこの恋を後悔し続ける。そうとわかっているのに、気づいた時には、無意識に伸びた腕が三日月宗近の着物の裾を掴んでいた。「待って、行かないで」と自分の口から漏れた言葉がやけに卑しくて、私は本当に自分が嫌になった。なぜ審神者になど成ってしまったんだろう。最悪な気分で顔を俯かせる私を見下ろしながら、引き止められた三日月宗近は不気味なほど満足げに莞爾と笑って呟く。

「主の好きなようにするといい。俺は主のものなのだから」

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